水上奇譚

24話「奇跡と魔法」


「薬は……薬は無いんですか? 解熱剤とか」
無い、必要ない、と後部座席の大賀は応じた。
ひどい頭痛に額を手で覆うようにしてシートへ沈み込んだ大賀の耳に、何かを探すようなガサガサという物音が聞こえて、
「薬はいい」
と再び口にする。
発熱は不調の原因ではなく結果なのであって、仕事中であるのならともかく、今ここで薬で抑えたところで意味はない。
口に出してそう言ったわけではないのだが、意外にも男は言い返してきた。
「そうじゃなくて、あなたが辛いんじゃないですか、ってことですよ。僕が言ってるのは。頭痛薬でもいいからとりあえず――ああもう、ガムくらいしか無いな」
苛立たしげに物入れをさぐっていた音が途絶えたことに気づいて、大賀は目を開けた。
運転席で動きをとめて彫像のようになっている男の横顔。
ああやはり横顔のラインも瓜二つだと、あらためて感心していると、ゆっくりと振り返った男の手が何かを差し出していた。
その手にあったのは、古びたポラロイド写真だった。
津田が持っていた、逗子マリーナでの、あの一枚。
「これは……大賀さん、ですか?」
「……だいぶ昔のだけどな」
財布にでもしまいこんでおけばよかったと、大賀は何故か後悔した。
「こちらの人は?」
隣りの人物を指で示されて、大賀はためらった。
これが自分の知る津田敬司朗だと言えばいいだけのことであるのに、大賀は逡巡したあとで
「友達、かな」
と曖昧な口調でつぶやき、視線を避けるように目を閉じた。
「大賀さん――」
責めるような口調を無視して、大賀が右手を差し出す。
「リモコン、とってくれ。カーナビの設定してやるから……いや、そっちじゃなくてそう、それだ」
柳井家の住所を目的地として登録すると、大賀は力尽きたように再びシートへと沈みこんだ。
あとは機械が勝手に道案内をしてくれるはずで、頭が上手く動かない状態でこの会話を続けるほうが危険なのだと自分に言い聞かせて、意識を手放す。
何もかも、柳井家に到着してから晶子を問いただせばいいだけのことだ。

「大賀さんたちは……いったい何者なんですか」

車の揺れに身をゆだねていると、遠いような近いような距離で、男の声がした。
たち、と誰かと一緒に括られるのも不本意なら、何者なのかと問われるのも彼我の立場が逆ではないかと思ったが、その呟きがこの男が置かれた立場をあらわしているような気がして、大賀は自分でも意外なほどの深い眠りに落ちて行った。


「で、熱を出したせいであのお屋敷に戻って? こうしてマイホーム・パパになっちゃってるわけだ」
手すりに寄りかかり、長原貞明が高い天井を見上げる。
言われるままに足を踏み入れたこの温室は、昭和のころに造られたのではないかと思われるほど老朽化した建物だった。しかしデザインは意外にも洒落ていて、吹き抜けの中央には背の高い熱帯の木々が配されて、ギャラリーのような二階部分がついている。
「パパ……」
「パパだろ、パパ。日曜に動物園にいるおまえなんて、坊やが見たら泣くんじゃないか?」
おおげさな身振りで長原が手を振ると、意外なほど近くにいた尾羽の長い瑠璃色の鳥が飛び立ち、天井近くまで舞い上がった。
井の頭公園の奥にある自然文化園の、さらなる奥に建つ「熱帯鳥温室」。
この建物の前で「よう」と声をかけられた時には、薄手のウインドブレーカーに目深にかぶったキャップ、片手にはスポーツ新聞という、あまりに周囲の家族連れにとけこんだ平凡な出で立ちに、大賀でさえ最初は誰であるのか分からなかった。
「どうしてここに?」
大賀は階下を気にしながら尋ねた。
敷地の外れにあるこの温室は人もまばらで、大賀のいる二階から見渡せるかぎりでは、小さな双眼鏡を片手に鳥を探している父と子がいるだけだ。
しかし今にも晶子たちが大賀を探して戸口に現われるような気がして、さっさと話を終わらせてしまいたかった。
「どうしてって、うーん、正面きって聞かれてもなあ……」
「何をいまさら」
「そうイライラするなよ。ちょっと耳に入れておこうと思ってさ。おまえんとこのあの坊や、何かマズイことになってるみたいなんで」
「坊やって、克哉が?」
意外な話題に、大賀は目を見開いた。
比留間克哉とは、四谷で別れてからというもの、連絡すらとっていない。
「なんかねえ、その筋のシャレにならない連中に目をつけられるようなことしてるんだよなあ。おとなしく素人相手のサイバーチンピラでいりゃいいものを……」
「何をやったんだ?」
大賀は眉をひそめた。
悪がしこく用心深いあの比留間克哉が、下手なしくじりなどするだろうか。
長原は首のあたりをかきながら、なんとこう言った。
「うーん、取引現場のタレコミっていうか」
大賀は呆気にとられた。
「……は? 警察に? あいつが? どうして?」
「って思うだろ? どうしてなんだかなんなんだか、本人に分かってりゃいいけどね」
ふう、と溜息をつくと手すりにもたれていた長原は体を起こした。
「ま、それだけ。邪魔したな」
階段を降りていこうとする長原の背中へ、大賀は問いかけた。
「そんなことを言うために、わざわざここへ?」
おかしな話だ、と大賀は思った。
たとえ比留間がどうなろうと、長原自身にはまったく関係のない話である。そもそもその程度の忠告であれば、電話ひとつで済みそうなもので、わざわざ変装めいた格好をして、休日の動物園にまで大賀に会いにくるほどのことであろうか。
「そんなこと、ねえ……」
階段で足をとめた長原が、背を向けたまま、あきれたように首を振る。
考えこむように階段半ばで立ち尽くしていた長原貞明は、やがて渋々といった様子で振り返った。
「わざわざそんなことをこの俺が言いにきたのはさ、おまえが津田の奥さんに何もしなかったからだし、なんでだか津田の娘にかまってやってるからだし、坊やが今でもおまえになついてるからなんだよ」
「どういう――」
言葉の意味を理解できずに問い返そうとして、長原には伝えていないはずの事実を聞き流してしまったことに気づき、大賀はわずかに眉を上げた。
「いま、津田の娘って言わなかったか?」
「ちがうのか?」
逆に問い返されて、大賀は珍しく言葉に詰まった。
「……なんかさ、調べれば調べるほど、津田っていうのはヘンな男だね。べつに見合いってわけでもなくキレイな奥さんもらっておきながら、パトロンの女王様相手に隠し子つくったり、おまえそっくりの男の愛人囲ってみたりさ」
耳の裏を掻きながらの長原の呟きには、大賀も思うところがあった。
「そうだな」
「で、正直なとこさ、最初はおまえには何かプランがあるんじゃないかと思っててね。今もそう思っちゃいるんだけど……でも……もし違うんだったら……」
長原は歯切れ悪く言いよどみ、足元を見つめた。
津田夫妻について調べるよう、この男に依頼したのは大賀自身である。何らかの企みがあって柳井家に出入りしているのではと思われていたとしても、無理はない。
そのあたりは理解できるのだが、長原が先ほどからためらいながら何を言おうとしているのかが読み取れずに、大賀は相手に疑いの視線を向けた。
「もし違ったら? 何なんだ?」
長原貞明が、ようやく顔を上げて大賀を見た。
奇妙なほど長い沈黙のあとで、「あのな」と長原は切り出した。
「俺はただの心優しい超ダンディだけど、おまえはさ、ちょっとした魔法が使えるタイプの男だよ――だからどうせなら、それを良いことに使ってくれないか」
緊張にわずかに頬を強張らせた、ふざけた言葉とは裏腹の生真面目な顔つきだった。
意表を突かれて、大賀は長原をただ見返した。

「あっ、おおがー! やっぱりここにいた!」
扉を突き破る勢いで現われたのは、晶子たちだった。
しまった、と口元を引きつらせたが、身を隠すのもここへ来るなと叫ぶのもすでに手遅れだ。
「ねえねえ大賀、フェネックが起きてくれなくてつまんないのー!」
「大賀さん、晶子ちゃんが檻の中にエサを投げようとするんですよ」
苦笑しながら晶子のあとをついて階段を上がってきた男が長原貞明とすれ違い、大賀は思わず息をつめた。
白い鳥の羽がひらりと、すれ違う二組の間に舞い落ちる。
何食わぬ様子で温室を出て行く長原は、果たしてこの男の顔を見たのだろうか。
「なにか?」
大賀の表情に、当の男は首をかしげた。
「いや、べつに……フェネックが何だって?」
子供にするように晶子の頭に手をやって階段を降りかけた大賀は、取り残された男に気づいて振り返った。
「何やってんだ。敬司朗、行くぞ」
「……はい」
不安そうな表情が晴れやかな笑顔に変化するのを目の当たりにして、大賀はふと今ここにいない二人のことを思い出した。

――呼ぶな
――呼ばないで、けがらわしい

いまと同じように、大賀がただ名を呼んだだけであるのに、比留間も知佳子も自分を呼ぶなと叫んだのだ。まるでその言葉に大きな威力でもあるかのように。
(魔法か……)
長原らしいもってまわった言い草だが、つまり自分は説教されたのだなと理解して、大賀は苦笑した。
「どうかしましたか?」
目ざとい敬司朗がそれを見て、問いかけてくる。
「何も。なあメンフクロウって、あれに似てないか。ほら、書斎の天井の木目」
「木目?」
「あっ、ホントだ似てるー!」
晶子が歓声を上げて、猛禽の檻へと身を乗りだす。
すぐに跳ねるような足どりで先へ先へと行ってしまう晶子に「あんまり遠くへ行くなよ」と声をかけると「わかったー!」と返事がきて、隣りを歩いていた男が、何故かくすりと笑った。
「親子みたいですね」
「……」
大賀は言葉を失ったが、自分の発言の意味が分かっていない様子の敬司朗は微笑んだ。
「晶子ちゃんは、大賀さんのことをすごく頼りにしているみたいで。いない時にもよく、大賀が大賀がって話しているんですよ」
「何を話すことが――」
「大賀って意地悪だよね、とか大賀ってオジさんみたいだよね、とか。でも、とっても楽しそうなんですよ」
昔からの知り合いでもなければ、出会いがしらにナイフを突きつけられたような間柄だと説明したら、この男はどういう顔をするだろう。
そのあとでさえ、特に互いの関係を好転させるような出来事があったわけではなく、晶子が大賀に信頼を寄せているように見えるのも、つまりは「この男という秘密」を分かち合う人間が、大賀のほかに存在しないからなのだ。
大賀のことばかり話すというのも、あたりさわりのない共通の話題が他に無いからに違いない。
「あの、何かおかしなこと言いましたか?」
すぐに不安そうになる敬司朗に、大賀はわざと不機嫌を装って
「言った。なんで親子だよ、俺はまだギリギリ20代だ」
と返す。
ただの軽口のつもりの発言に「ええっ……」という反応がきて、大賀は立ち止まった。
驚愕の表情を浮かべた敬司朗が、大賀の顔をまじまじと見て、裏返った声をあげる。
「大賀さんって、そんな若かったんですか!?」
いつの間にか戻ってきていた晶子が、大賀の背中に頭をぶつけるようにして、派手に吹き出して笑いころげた。


(魔法……魔法か)
長原がどう言おうとも、当然ながら大賀はただの人間であり、指先ひとつで奇跡を起こすことなどできるはずもない。
できるはずがないのだが、しかし。
(起こさないと困る奇跡が、ひとつ)
笑いながら晶子の相手をする敬司朗の横顔に視線をあてて、大賀は記憶を巻き戻した。
高熱にうかされた状態で舞い戻った柳井家で、まだ熱も下がりきらないうちに、大賀は柳井美保の書斎へと入り込んだ。
晶子も認めるように、柳井家の庭は監視カメラだらけの状態である。
柳井美保の書斎にあった屋外カメラ用の記録装置は、ハードディスクの容量を超えると自動的に過去分を消去していくタイプのものであったが、二週間ほどしか経っていない今であれば、探せばあの日の――男が池で溺れていた日の――画像が保存されているはずであった。

過去の時間を好きなように呼び出すことができる、これこそ現代における魔法だ。

大賀は立ったままでリモコンを操作した。探していた画像は、日時検索機能によって簡単に見つけられた。
(これだ)
再生が始まり、大賀ひとりを観客として――あの日の時間が甦った。
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