水上奇譚

23話「呪文」


かつて、津田敬司朗が住んでいたアパート。

利章に教えられたその住所は、時間貸しの駐車場へと変わっていた。
少し考えてから、空いた場所にレガシィB4を乗り入れ、大賀は街へと降り立った。
一人暮らし用の小さなマンションが建ち並ぶ住宅街を通り抜け、周囲を眺めながら、初台の商店街を歩いてみる。
新宿から一駅という立地にしては静かな、しかしごく普通の商店街だ。視線を上げれば高層ビルが目に入ってくるものの、町並みそのものは古びた様子で、昔からありそうな商店や酒屋やクリーニング店が軒をつらねる中に混じり、真新しいコンビニエンスストアやファースト・フードのチェーン店があったりもする。
大賀はそれらのひとつひとつを覗いてみるが、目当ての人影は見つけられなかった。
あっという間に終着点と決めていた京王新線の初台駅へとたどりついてしまい、地下にあるホームまで降りる。改札を出入りする人波をしばらく眺めてから、ふたたび駅を出る。
(たとえば……)
そう、たとえばだ、と大賀は想像してみる。
(知っているはずの町が変わっていて……住んでいた家が無くなっていたとしたら?)
なにも柳井晶子が言い張るような非現実的な理由でなくとも、火事や地震の場合でもいい、もしも現住所が住むところでなくなっていたとしたら――頼るべき肉親のいない自分のような人間でもなければ、やはり故郷を頼りにするものではないだろうか。
足をとめて振り返り、初台駅の文字を見やる。
(ここにいないとしたら、福島か?)
津田自身はこちらに転居しているが、利章の話によれば、郡山市にある津田の生家は現在も親族が住んでおり、市内には親類縁者が数多くいるという。とりあえず地元へ向かうというのは、ありそうな選択だ。
たとえそうだとしても、それほど遠くへ追いかける時間的余裕も義理も自分にはない。福島は柳井家の本拠地でもあるし、あとはもう晶子に任せてしまえば――
そこまで考えて、大賀は顔をしかめた。
(なにが非現実的な理由でなくても、だ)
ここへ戻ってくるかもしれないという思いつきも、福島へ行くのではという推測も、すべてが「あの男が津田である」という前提に立ってのことではないか。
晶子に対しては「くだらない」の一言で背を向けておきながら、自分は何を血迷っているのか。
(馬鹿じゃないのか俺は)
ふと気がつけば、いつのまにか足早に商店街を通り過ぎ、甲州街道へ出てしまっていた。
車が行き交う大通りを前にして立ち尽くしていた大賀は、ふと気づいて空を仰いだ。
ほんの少しだけ見える空――アーケードのように道を覆いつくす首都高速の高架と、ビルとのわずかな隙間から、きらきら光る欠けらが降ってくる。

――雨か。

薄曇りの空から落ちてくる雨が、大賀の頬を濡らした。
ため息をつきながら、どこかで雨をやりすごすか、それとも車を取りに戻るかと、首をめぐらせた大賀の視界の端を、ちらりと何かがかすめていった。
歩き出してから違和感を感じ、ふたたび背後を振り返る。

(……あいつ!)

白いシャツに、茶のズボン。間違いない。通りの向こうを、探していた男が横切っていくのが見える。
「……おい! 待て!」
大賀が声を張り上げてみたところで、高速道路の真下の、しかも片側二車線もある道路の向こうへは、声が届くはずもない。
「おい、待てよ!」
行き交う車が視界を塞ぎ、男の姿は遠ざかっていく。
どこへ行くつもりなのか、男が向かう先は東京オペラシティ、新宿方面だ。
見失う、と思った。

――くそ。

焦りなのか苛立ちなのか、大賀の頭に血がのぼった。
本気で捜してなどいない、この町にいるはずはないと自分に言訳をしながら捜しまわり、ようやく見つけたあの男を、ここで見失ってしまうのか。
腹が立って、思わず叫んだ。それが呪文であったかのように、男の肩がびくっと震え、驚いた顔をして振り向くのが見えた。
大賀はただ一言、怒鳴ったのだ。
敬司朗、と。


「どうして大賀さんがここにいるんですか」
呆然とつぶやく男の前で、大賀は息をきらせていた。
夜明け前に晶子に叩き起こされたせいで、二時間程度しか睡眠をとっていない自分なのだ。男を逃がすまいと全速力で歩道橋を駆け上がったせいで、この場にへたりこんでしまいそうだった。
どうしてと言いたいのは、大賀自身である。
怯えたように立ちすくむ男を見ているうちに、しだいに腹が立ってきた。
忙しい毎日に、不満はない。仕事は充実しているし、私生活では結婚も予定している、順風満帆な人生をおくっていたはずだった。
ところが、この顔をした男が死んでからというもの、未亡人となった妻には陥れられそうになり、隠し子には拉致されかけて、元愛人という男には罵られ、自分はまったく、ろくでもない目にばかり遭わされているのではないか。
「あの、大賀さん……?」
文句を言おうとした大賀は、何故かふいに足の力が抜けて、その場に片膝をついてしまった。
「大賀さん?」
いきなり視界が狭くなったような感覚だった。男が駆け寄ってきた気配がしたが、大賀には舗装された道路しか見えなかった。
「あの、すごく熱いですよ。熱があるんじゃ……大丈夫ですか?」
遠慮がちな声が、ひどく遠くに聞こえ、冷たい手のひらが大賀の額にあてられた。
「立てますか? こんなに熱があるのに、雨に濡れたりしたらダメでしょう」
たしなめるような口調に、「誰のせいで」と大賀は唸った。
「誰のせいで、俺がこんなところをウロウロしてると思ってるんだ」
雨ではない、いやな汗が額ににじんでいる。大賀は寒気を感じて、体を震わせた。
「誰って……まさか僕ですか」
大賀は苦労して顔を上げ、男の表情を見た。
心底おどろいたような様子に、「何がまさかだ」と悪態をつこうとして、大賀はふと気がついた。
さっさと帰れと言ったのは自分だ。
この男を疑いの目で見ていたのは自分だ。
今の今まで思いもしなかったことだが、この男が柳井家を出て行ったのは、自分のせいであったのだろうか。
身動きひとつしない男と大賀の間に、長い長い沈黙が落ちた。
雨は降り続き、大賀の背中を濡らしていく。
「とりあえず」
先に視線をそらしたのは大賀のほうだった。
問いただすのも反省するのも考え込むのも面倒になって、大賀は車のキーを取り出した。
「俺はもう歩けないから……、車をとってきてくれ」
「運転、できるかどうか分かりませんよ」
「免許くらいは持ってただろ?」
言いながら、いいやそれは津田のことであったかなと大賀は思い直した。
遊びに出かけるときの運転手役は妻の知佳子か大賀の役目であり、たいていの場合、津田敬司朗は助手席のシートを倒して、道案内をするでもなく呑気にうたたねをしていたものだったのだ。
「そうじゃなくて」
男は憤慨した様子で肩をつかみ、大賀の目を覗き込んできた。
「あのですね、僕は電車の切符だって、前の人の真似をして買ったんですよ。家を出てここに来るまで浦島太郎になった気分だったんですよ。あなたにこれが分かりますか? なのに車の運転なんて出来るわけないでしょう!」
顔を赤くして怒りだした相手に、大賀は思わず笑っていた。
「なにがおかしいんですか!!」
本当に何がおかしいのか、大賀は体を折った姿勢のまま、喉の奥で笑いつづけた。
いったい自分は何を警戒していたのだろう、と思った。
目の前にいるのは、腹が立てば怒り出すような、大賀よりも世慣れていない、ただの年若い男なのだ。
晶子が何と言おうと、姿形がどれほど生き写しであろうと、たとえ敬司朗と呼ばれて振り返ろうとも、やはり大賀の知る津田という人間とは似ていない。高木敦也が語った津田とも似ていない。
似ていないではないか。
いつも悠然と微笑んで、何もかも見通しているかのようであった津田とは、ほんの少しも。

「……ブレーキとアクセルの位置は同じだよ。信号の色も。だからおまえが浦島太郎でも津田敬司朗でも、まったく問題ない」

ようやく笑いをおさめて、大賀はそう言った。
そろそろ目をあけているのが苦痛になり、自然とまぶたが下がってきた。
そして大賀の指先から離れた車のキーは、あわてて差し出された男の手の上に落ちたのだった。
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