水上奇譚

22話「夜と朝のあいだに」


「おおが!!」
大賀が布団にダイビングされたのは、明け方のことだった。

「男の部屋に入るなと、何回言ったら……」
まだ目の開かない大賀は、晶子の襟首をつかむようにして自分から引き剥がした。
「だって、だってケイシロウがいないんだよ!!」
「はあ……また? トイレは見たか?」
がりがりと頭をかき、眠気を追い払うように、首を振る。ようやく目が慣れてみると、欄間から差し込む光は弱々しく、時計を確認するまでもなく夜明け前だ。
「そんなの見たよ! いないんだよ! 早起きしてお弁当つくる約束してたのに!」
そういえば公園に行くという約束をしていたような気もするが、何もこんな時間帯から騒ぎださなくてもいいだろう。寝入ってから数時間しか経っていない大賀は、きしむような頭痛に、思わず額に手をあてる。
「庭は……? 庭で朝の散歩でもしてるんじゃないか?」
「モニターで見た。いないもん……どこにもいないんだもん」
柳井美保の書斎に設置された四台の液晶モニターは、分割された二画面で監視カメラから送られてくる映像を映し出している。屋敷の外周と庭の様子が自動的に切り替わる設定だが、指定したカメラの映像を呼び出すことも可能だ。
「……で?」
顔を洗う時間も与えられずに部屋へ引っ張られてきた大賀は、赤茶色の革のソファーへ倒れこんだ。やる気のない姿勢のまま天井を見上げ、洋室に改造されたこの場所だけは、どことなく片庭家の先代の書斎を思わせる雰囲気があるな、と考えていた。
部屋の二面を占拠している書架にずらりと並んだ洋書の、くすんだ色の背表紙のせいかもしれない。
「で、って、だからいないでしょって! 大賀ちゃんと見た?」
柳井晶子は半泣きで、リモコンを片手に振り返る。
大賀はあくびを噛み殺しながら、仕方なく体を起こした。
「見てるよ。録画はあるんだろ?」
「録画?」
「ライブ映像のためだけにカメラをつけているわけじゃないだろう? いなくなったなら出て行く映像が残ってるはずだ」
「ケイシロウが……自分で出て行ったって言うの……?」
晶子は呆然と呟き、大賀は顔をしかめた。
「そうでなきゃ何なんだ? この家に誰かが入ってきて連れて行ったとでも思ってるのか? いいトシした成人の男を誘拐するためにこんな屋敷にわざわざ押し入るとでも?」
「だって……行くところなんか……」
「いいから、操作を教えてくれ」
大賀は右手を差し出した。

目当ての映像は簡単に見つかった。
玄関脇にあるパネルを操作して警報を切ったのだろう、正面玄関から外へと出る男の姿を一台のカメラがとらえていた。
画面の右下に表示された時間は、今から一時間ほど前。
そこに映し出された男の姿は、とりたてて慌てた様子でもなく、手には何も持っている様子はない。

――何かを盗って出て行ったというわけでもないのか。

「手ぶらみたいだけど、小さな貴金属類は確認しておいたほうがいいかもな」
「……貴金属? なんで?」
大賀の言葉に、晶子は驚いたようだった。
「そういう心配じゃなかったのか?」
「……ケイシロウは何も盗らないよ。それに、行くところだってない」
返事は低い声だった。ふいに身を翻して、晶子は戸口へと向かう。
「どうした?」
大賀の問いかけに、晶子は表情を消した顔で肩越しに振り返ると「ついて来て」と言った。


しんと静まりかえった、夜明けの薄明の時間帯。
晶子は月見の間の庭へ面した戸を開け放つと、裸足のまま池と土べりとの間のわずかなスペースへと降り立った。
「おい……」
「あのあたりに、立ってたんだ」
すっと腕が上がる。
晶子の指先がさす方向、おだやかに揺れる池の水の向こうに、見慣れた松の木が見える。
「あの人、ここへ来ると、いつもあそこに立ってた」
「あの人って……津田さんが?」
うん、と頷いて、晶子は腕を下ろした。
「どうして来るのか、母さんのこと好きじゃないのに、なんでここに来るのか、ずっと不思議に思ってた。もしかしたら、あの人は……大賀に会うために来てたのかもしれない」
「――は? 俺? どういう意味だ?」
この屋敷で、どうしたら自分と津田が顔を合わせることなどあるだろう。大賀がこの土地に住んでいたのは、まだ晶子が生まれてもいない、柳井家の屋敷が建てられる以前のことだ。
不可解な言葉に大賀は眉をひそめたが、柳井晶子は背を向けたまま、静かに続けた。
「大賀とは、あの時が初対面なんかじゃない。いままでに何回も会ってるよ。中学生の大賀にも、小学生の大賀にも、三歳くらいの大賀にも会ったことあるよ。ただ見えるだけのことのほうが多いんだけど……話したこともある」
大賀は寒気を覚えた。
どういう種類の冗談なのか。この中学生になったばかりの少女が、どうして三歳児の自分を知っているわけがあるだろう。
「なに言ってるんだ。何の話だ?」
「何の話なのか、ちゃんと説明できるくらいだったら、殴って拉致ろうとなんてしなかった」
苛立たしげに振り返り、水面を指差す。
「池の水がゆれて、知らない家が見えたことは? 庭を歩いてて、いるはずのない人とすれちがったことはない? なんであの人は、また帰ってくるなんて言ってたの?」
「津田さんが? 何て言ってたって?」
理解できる部分を聞きとがめて、大賀は口を挟んだ。
晶子は言いたくなさそうに唇を噛みしめていたが、やがて再び背を向けてこう言った。
「最後に会ったとき、言ってたんだよ。もうすぐ会えなくなるかもしれないけど、一回だけ帰ってくるから、それまでここで大賀と待っていてくれないか、って」
だから、と背を向けたままの晶子は続けた。
「だから、あのケイシロウは本物なんだよ。あれは20年くらい前の――あのひとなんだ」


洗濯機から取り出した洗濯物を、浴室に干す。
タオルやバスローブなどの元から部屋に置いてあったもので、大賀はそれらを浴室の壁面に設置された物干しに広げると、浴室についている乾燥機能で、さらに一時間ほど乾かす。
年季の入ったマンションの3LDKはざっと掃除をしただけでは見違えるようにはならないが、とりあえずこれでいいだろう。
額の汗をぬぐうと、大賀は咥え煙草のまま、自分の荷物をまとめ始める。
使うと決めていた引き出しに入れていた私物を手際よくバッグへ放り込むと、あっという間に荷物は片付いてしまう。
最後に玄関のところで車のキーを取り出し、置きかけて――
(しまった)
あの写真を、車に置いたままだった。
わずかにためらってから、大賀は荷物を手にしたまま駐車場へと向かう。
知佳子に投げつけられた写真のうちの、 逗子 ずし マリーナでの津田との一枚。
たいして意味のある写真ではないが、長原貞明にわざわざ娯楽を提供するほど間抜けな自分でもなく、そもそも次に長原の個人的なこの隠れ家と車を使うのが本人であるかどうかさえ分からないのでは、回収するしかない。
大賀はレガシィB4の助手席へすべりこむと、手探りでグローブ・ボックスの中から写真を引っ張り出した。
持ち歩く気にもなれず、どこかへしまいこむ気にもなれず、ここへ入れたまま忘れかけていた写真であったが、うららかな春の陽射しが差し込む車内で目にするそれは、実際よりも美しい思い出のように見える。
色あせた四角いカードの中で、津田が微笑んでいる。

――だから、あのケイシロウは本物なんだよ

柳井晶子の声がよみがえり、大賀は思わず眉間に皺を寄せた。
(なにが「だから」だ)
何を言っているのか、まったく理解できない。大賀に何度も会っていると主張する意味も、「だから」あの若い男が津田なのだという理屈も、まったくもって理解不能だ。
津田敬司朗は死んだのだ。
それがすべてだ。
晶子にそう言い捨て、夜明けとともに大賀は柳井家を辞して、長原貞明のマンションへと戻ってきた。この部屋を引き払って自宅へ帰り、いままでどおりの自分の生活へと戻るつもりで。
あの勝気な晶子が、なにひとつ言い返さずに黙って大賀を見送る小さな姿が、脳裏に浮かんだ。

晶子がケイシロウと呼ぶあの男は、もう戻ってきたのだろうか。
このまま姿を消すならそのほうがいいが、どうしてあの男は、手持ち無沙汰のような顔をして柳井家にとどまっていたのだろう。
本人に何か腹積もりがあったのか、あるいは他の誰かのたくらみか。

――僕は趣味ってものが無くて

あの男は津田と似ているようで似ていない。
大賀の知る津田は、好奇心旺盛な多趣味な男で、つぎつぎと新しいことに手を出しては、大賀や利章を振りまわした。
大賀もよく津田に頼まれては、ビリヤードを教えてやったり、乗馬クラブに付き合ったり、ボードゲームやカードゲームの手ほどきをしたものだった。
津田の興味が持続することは滅多に無かったが、「とりあえず何でもやってみないと」と悪びれずに笑っていた。
似ていない――大賀の知る津田とは似ていないが、大賀とて津田のすべてを知っているわけではない。
むしろ知らないことのほうが多いはずだ。
たとえば、はるか昔、20代のころの津田は、どういう男だったのだろう。

考えるほどに頭痛を覚え、大賀は軽くかぶりを振った。
津田敬司朗の仕事上の経歴は知っているものの、過去のこまかな部分までは分からない。特に20年も昔の話となれば――
(ばかばかしい)
馬鹿馬鹿しいと口の中で呟きながら、携帯電話を取り出して、目当ての番号を呼び出した。


津田は20代後半のころに、地元の福島から東京に居をうつして会社を移転させている。
最初の社屋があった場所などは、ウェブ上にのせている社史からも分かることだが、当然ながら津田の個人的な住まいまでは掲載されていない。
「えーっと、待てよ。おれが小学生だろ? 敬ちゃんもうこっち住んでて……新宿だったかなあ。ねえ、敬ちゃん最初どこ住んでた? え? うん、ちょっと聞きたいだけ」
利章のセリフの後半のほうは、傍にいる誰かに尋ねている様子だった。
「なに、お母さんか?」
津田のことを敬ちゃんと呼ぶからには、身内との会話だろうと尋ねてみると
「えー、ちがうよ、おじさん。いまチカさんの病院に行くとこで、車の中だからさー」
利章ののほほんとした返答に、大賀はぎょっとした。
「おじさんて、まさかうちの常務の?」
「そう。いちばん詳しいだろ。え、番地とか覚えてる? うん、ああそう……これから言うけどメモとれる?」
「ああ」
大賀は返事をして、携帯電話の録音機能をオンにする。電話を切る前に「あとでちゃんと説明しろよー」と陽気な声がかかっただけで、利章はとうとう大賀に理由を尋ねなかった。
利章を言いくるめるのはともかく、常務の岡が納得するような理由を捻り出せるかどうか、大賀には自信がなかったが、とにかくキーを回してエンジンをかけた。
わざわざ車の鍵を部屋へ返しに行って、歩いて帰るのも面倒だ。
そしてこのまま荷物をのせて自宅へ戻るだけなら、少しくらい遠くへドライブしてみたところで、変わらないだろう。
初台 はつだい 、か)
利章を経由して聞きだした津田のかつての住居は、渋谷区の北側だ。
手にした写真をふたたびグローブ・ボックスへ放り込むと、大賀はサイドブレーキに手をかけた。
長原のB4とは、意外と長い付き合いになりそうだなと、自分に呆れながら。
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