水上奇譚

21話「失踪前日」


その前夜のことだった。
柳井家の一室で、大賀は持ち込んだPCで仕事を続けていた。
なんとこの屋敷にはネットワークに接続する方法が無いとのことで、仕方なくブルートゥース対応の携帯電話を利用してみたものの、接続は何故かすぐに途切れてしまう。
おそらく設定に何か問題があるのだろう――しかし半月ほど前の出張では何事もなく使えたはずで、大賀にはこれといって思い当たる原因もない。どうしたものか、見切りをつけて単純な作業でもするか、それともいっそ寝てしまおうかと、大賀が煙草へと手を伸ばしかけた、その時だった。
「けいしろうー」
ぱたぱたと軽い足音が、大賀に与えられた部屋の前の廊下を駆け抜けていく。

「……おい」
「あれ、大賀。まだ起きてたの?」
障子を開けて顔を出すと、柳井家の長い廊下の先のほうで、柳井晶子が振り返った。
身に着けた白い上下のパジャマはこの少女にはひとまわりサイズが大きく、そのためにいつもよりいっそう幼く見える。
「起きてたのじゃない、いま何て言った?」
「へ? 『あれ大賀』って」
「そうじゃなくて……」
苛立ちを抑えながら、大賀は額に手をあてた。
「ねえ、そんなことよりケイシロウ見なかった? 部屋にいないんだけど」
晶子が口にした名前よりも内容のほうに呆気にとられて、大賀は思わず声を荒らげた。
「こんな時間に部屋に行ったのか?!」
「えー、だって読みたいって言ってた本が書斎にあったからー」
「バカ、あったからじゃない!」
口をとがらせた晶子を、怒りにまかせて怒鳴りつけてしまう。
保護者不在のこの屋敷に上がりこんで寝泊りしている赤の他人という意味では、自分もあの男も何ら変わるところはない。しかし、傍からどう見えようとも、少なくとも目の前にいる少女に危害を加えるつもりがない自分と得体の知れないあの男とでは、危険度合は比べものにならないではないか。
(なんで俺が)
そもそも、良識ある男でも何でもないこの自分が、どうしていちいち中学生を叱りつけて常識を説かなければならないのか。
「鍵、だいたい、部屋に鍵はないのかここの家は!」
怒りのおさまらない大賀の言葉に、晶子は理解できない様子で首をひねった。
「えー、だって庭にいっぱいカメラついてるのに、なんでうちのなかに鍵なんか……」
「もういい、部屋に戻ってろ。俺が捜してくる」
話にならない、とかぶりを振って大賀は卓の上に置いてあった携帯電話を取りに戻ると、まだ廊下に立ったままの晶子へ
「……部屋!」
と犬に命じるように廊下の奥を指さしてから、足音荒くその場を歩き去った。


まったく、と思う。
知れば知るほどに、この屋敷は不可解なことだらけだ。
建物自体の設えのすっきりとした美しさはいいとして、歩き回ってみれば、これがまったく実用的ではない。
大賀の見たところ、主人たる柳井美保の居室、娘の晶子の部屋以外に使用している形跡があるのは、広大な池が見渡せる「月見の間」くらいであり、あとはただ畳と障子があるだけの、書き割りの映画のセットのような何もない空間なのだ。
奇妙に広い厨房からしてゲストハウスのような役割を持つ家なのかと晶子に尋ねてみても、客がおおぜい訪れたことなど一度も無いと言う。
駅から遠く離れた奥まった立地といい、ネットワークが整備されていない環境といい、実業家の顔を持つ柳井美保が娘と二人で暮らす自宅として考えると、とても住みやすい住居とは思われない。
晶子の話を信じるのなら、屋敷の庭の部分については津田敬司朗の指示によるものらしいが、津田はいったいこの土地の何を気に入って奇妙なこだわりを見せたのか、何故その要求に柳井美保が従ったのか――


部屋に戻っていればそれでよし、戻っていなければ持ち物をあらためるよい機会だ。
戸に手をかけた大賀は、ためらうことなく男が使っているはずの小部屋へ足を踏み入れた。
小部屋と言っても、この屋敷の基準で言う小部屋であり、畳にして十二帖分はある。
「……なんだこれは」
思わず声を上げたのは、積み上がった本の山を目にしたからだった。
壁にそっていくつもの小山が築かれており、よく見れば書籍、週刊誌、新聞、と律儀にジャンル分けされている。
たたまれた布団、わずかな衣服と下着、あとから運びこまれたらしい小さな文机にはペンがころがっている程度で、大賀は座布団の裏までめくってみたが、個人情報をさぐることのできそうな所持品はひとつも見当たらなかった。
あきらめて本の山へと目を向けると、書籍の山は日本近代文学全集、週刊誌の山には晶子の持物らしきティーン雑誌からTV情報誌にダンスマガジンに週間少年ジャンプと、まったく一貫性のない揃えかたで、これらの情報から読んでいる人間の人となりを思い描くのは困難だろう。
あえて言うのなら、乱読傾向が見てとれるのだが――
新聞の山から競馬新聞を手にとり、大賀は眉間に皺を寄せたまま、部屋の中を見回した。


もしかしたらと大賀が庭へ出てみると、すぐに池の端に立つほっそりとした影が見つけられた。
「……あれ、大賀さん?」
気配を察知して、男が振り返った。
敷石を踏みながら歩いて来た大賀は、足音をたてた覚えは無い。
――ぼんやりしているように見えて、意外と敏い男ではないか。
大賀はまた不信感を新たにして、何も言わずに男のほうへと歩いて行った。
「どうかしたんですか?」
ポケットに手をつっこみ、むっつりと押し黙ったまま歩み寄る大賀の様子を見てとり、男は不思議そうに首を傾けた。
人騒がせな、と言ってやりたいところだったが、実際のところ大賀の不快感の源は他にある。子供でもなければ囚人でもないこの男が、夜中に庭に出ていたくらいでいちいち文句を言われる筋合いはないはずだ。
大賀は苦労して不満を胸におさめて溜息をつくと、「眠れないのか?」と短く聞き返した。
「はい、ここはやることが無さ過ぎて……午後になると、うとうと昼寝してしまったりするので、眠れなくて」
男は困ったように微笑んだ。
「いつも時間があったら、あれをやろうこれもやろうと思っていたのに、いざとなると何も……僕は趣味ってものがなくて」
この男が自分のことを語るのを聞くのは、これが初めてだ。
素性を問い詰めるよい機会であるのに、大賀は戸惑い、何故かためらった。まったくおかしな話だが、その先を聞きたくないような気がしたのだった。
「大賀さん、ご結婚は?」
いきなり話を振られ、大賀は面食らった。
「いや、まだ。予定だけ」
「そうですか。じゃ、お休みはどうやって過してますか?」
「どうって、まあ時間があれば釣りでもゴルフでも何でも……」
「ご趣味は?」
男はいたって真面目な顔で尋ねてくる。本気だろうか、と大賀はますます困惑した。
「ご趣味って……趣味ねえ。そうやって楽しみと限定するからいけないんじゃないか? とりあえず勉強だと思って何でもやってみるとか、そういう習い事の姿勢で――」
言いながら、自分は何故この男に定年退職後のサラリーマンにするようなアドバイスをしているのかと我に返り、
「というより……他人の家でやることがないのは当たり前なんじゃないか? 俺だってここにいるせいでデータ整理くらいしかやることが無いわけだし」
顎で池の向こうに佇む屋敷を示して、「だったら帰ったらどうだ?」と言いはなった。
そう、自分がここへ戻って来るのは、この男が晶子ひとりしかいないこの屋敷に滞在しているせいであり、この男さえいなくなれば、当面の問題は消え去るはずなのだ。
(そうだったか?)
違ったような気がして大賀は自分に問いかけたが、この男さえいなくなれば、自分のマンションへ帰るつもりであるのは本当だった。
たとえ晶子が津田から何を頼まれていようと、自分はこの屋敷とも柳井家とも無関係であり、今後一切関わるつもりもない。

――俺はあんたをよく知ってるよ

高木敦也の声が甦って大賀を嘲笑った。
知佳子に慰めのようなものが与えられたら、と思ったのだ。
津田がどのような人間であったか、津田にどのような理由があったのか、故人にかわって言訳できるようなものが見つけられたらと思っていた。
ところが思いもしない証言が出て来て、大賀自身がショックを受けている始末なのだ。
そろそろ手を引いたほうがいいのかもしれない、と暗い水面を見つめながら、大賀は思った。
いまさら津田がどのような人間であったか知ったところで、どうなるというのか。

「そうですね、帰ったほうがいい」
穏やかな男の声に、大賀は現実に引き戻された。
意外にも男は気分を害したふうでもなく、大賀を見て微笑んだ。
「帰ったほうがいいのかもしれない――ひとつだけ聞いていいですか?」
返事をするかわりに、大賀は男を見返した。
「僕はあなたに会ったことがあると思う……覚えていませんか?」
「俺が? いつ? どこで?」
どこかで会ったことがあるような、と思ったことはある。しかし、これほど津田に似た男と出会っていれば、記憶から抜け落ちることはないはずだ。どこかで会ったような気がするというのも、要は津田と似ていることによる記憶の混乱なのだろう。
「よく考えてみてください、覚えていませんか?」
重ねて問いかける、男の表情は真剣だった。
大賀はわずかにためらってから
「ない、と思う」
きっぱりと否定した。
「そうですか……」
大賀の答えに、男は明らかに気落ちした様子で、俯いてしまった。
「何か、大事なことなのか? 俺と似た奴と、何かあったとか」
「いいえ、すみません。別にたいしたことじゃ……」
俯いたまま、男は早口に言って、大賀に顔を見られまいとするように、背を向けてしまう。
「本当は、たいしたことなんです。僕はたぶん、その人に助けてもらったんだと――思うんです」
おやすみなさい、と言い残して、男は母屋へと逃げるように足早に去ってしまう。
取り残された大賀は呆然として、「たぶんって何だよ……」と呟いた。
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