水上奇譚

20話「ソワール」


「おおが! よかった来ないかと思った!」

その夜、大賀がふたたび三鷹にある柳井家にたどりついたのは、日付が変わってからのことだった。
例によって忙しく仕事を切り上げ、電車とタクシーを乗りついでの帰還であり、遅くなるから寝ていてかまわないと言っておいたはずだった。寝静まっていても入れるよう、わざわざ屋敷の裏口の鍵を借りてもいたのだ。
「だって、大賀なんか怒ってたし、来ないかと思ったから……」
どこから外の様子をうかがっていたのか、門を開けるなり飛びついてきた柳井晶子が、叱られた子供のようにうつむいた。
「なんか怒ってた」とはまるで理由も無く大賀が機嫌を悪くしていたかのような言いようだが、大賀はあえて追究しなかった。する気力が無かったからだ。
「……行くって言っただろう。俺はそういう嘘はつかない」
深い溜息とともに、言葉を吐き出す。
ひどく疲れているのは、仕事帰りのためばかりではない。
「ああ、おかえりなさい。お腹すいてませんか?」
サンダル履きで、まるで以前から屋敷の住人であるかのように現れたのは、大賀の頭痛の最大の原因である、例の津田もどきの男だった。


「おまえもしかして、自宅に戻ってた?」
グラスを置きながら、長原貞明が尋ねてくる。
「遅い時間に部屋の電話にかけたら、出ないからさ」
「ああ、昨夜はちょっと。悪い……今週中には引き払う」
無意識のうちに腕時計に目をやりながら、大賀は答えた。
長原から借りた部屋もそのままに、大賀はここ数日は自分のマンションへ戻ったり、三鷹の柳井家へ泊まったりという、変則的な生活を続けていた。
今夜は三鷹へ戻る予定だが、寝ていろと言っておいても、何故か「あの二人」は毎度のように起きて大賀の帰りを待っているのだ。
「ここが例の店……じゃなさそうだな」
薄暗い店内をさり気なく見回して、大賀は言った。
バーの内装など似たりよったりで、津田の写真に映っていた店と雰囲気はよく似ているが、しばらく観察したあとで違う店だろうと結論づけた。
「どうして分かる?」
「写真の店とは、ここの木材が違う」
ブラック・ウォールナットのカウンターをかるく指で叩くと、「へえ、意外とこまかいとこ見てるねえ」と長原が感心したように眉を上げた。
いつも過剰にお洒落で、どこにいても目立つ長原貞明という男は、こういった非日常的な空間には不思議としっくり似合い、溶け込んで見える。
「ここは高木敦也が最近ひいきにしている店で、木曜の夜にはよく顔を出す。もうすぐ来るだろうから、設定決めとこう」
「設定って、何の」
嬉しそうに両手をこすり合わせる長原を見て、すでに嫌な予感に眉をひそめながら、大賀は聞いた。
「なにって、カップル設定だよ。あんたみたいのはタイプじゃないらしいけど、俺もそこまでの潜入は無理だから、安全策に。本当は、あの坊やなんかが協力してくれたらいいんだけどさ」
「坊やって克哉か? 無茶言うな」
喧嘩別れのようなあの夜から何の音沙汰もないが、気の短い比留間がゲイカップルを装うことなどできるはずもなく、また装う気も無いだろう。
目つきの悪い比留間克哉の顔を思い出しながら、大賀は声をひそめた。
「だいたい、そいつはその……ひとまわりくらい年上が好きな男なんだろう?」
長原は馬鹿にしたように大賀を見やった。
「だからいいんだろ。あっちに興味持たれずに、適度に会話できてさ。あんな図体のでかい、おっさん大好きなバリタチ相手に、かよわい俺の貞操があやうくなったらどうしてくれんだよ。あんたホント、対・男となるとニブイっていうか、てんで空気読めないねえ……」
「読めるわけないだろうが」
専門外の分野で能力が無いと責められ、呆れたように言い返す大賀の目の前で「ノンノンノン! そういう態度はよくないね」と長原は左右に指を振って見せた。
「恋愛だけの問題じゃない。たとえばだ、坊やがコソコソ俺のまわりを嗅ぎまわっているんだけど、理由分からないだろう?」
「そっちの身辺を? 理由って、別に理由もないだろ?」
比留間克哉の情報収集癖は病気というよりも呼吸のようなもので、特別に理由を必要とするような行いではない。
グラスを傾けて、いつもするように味わうわけでもなくただ酒を喉に流し込む大賀に、長原は何故か憐れむような流し目をくれた。
「まあ、あんたみたいに黙ってても他人に興味を持ってもらえるヤツには分からん話だろうが……おっと、その話はまた後で。主役の登場だ」
カラン、とひとつだけ来客を告げるベルが鳴り、スーツ姿の背の高い男、津田とともに写真に映っていた、高木敦也が扉を押して現れた。


「大賀さん! おかえりなさい」
「おかえり大賀、遅くなるって言ってたのに、今日は早かったね!」
いつものように柳井家の裏口を開けると、二人が飛び出してくる。
「ああ……」
上の空で、大賀は手を差し出す男に鞄を渡し、それからようやく「ただいま」と呟いた。
「今夜はねえ、ビーフストロガノフなの!」
「晶子ちゃんと一緒に買い物に行って、いい肉を買ったんですよ」
「ね、今回はうまくいったよね!」
晶子がはしゃいだ声を上げ、男が津田そっくりの微笑みを浮かべてこちらを見る。
いつもであれば、大賀にとっては胃がひきつるような思いのする光景なのだが、今夜ばかりはろくに目に入らず、不快にもならなかった。
「なら、もらおうかな」
力なく呟いて、大賀は足元へ視線を落とした。

「お口に合いませんでしたか?」
「え?」
男に声をかけられるまで、大賀は自分が食事を終えたことに気づいていなかった。
部屋はいくらでも余っていたが、柳井家の厨房の中央に置かれた調理台をテーブルとして食事をとることが、いつの間にか習慣となっていた。「このほうが、ふつうっぽくていい」というのが晶子の意見で、雑然とした中で食事をするほうが家庭的という意味であるらしい。
その晶子はどこへ行ってしまったのか、気がつけば大賀は二人きりになりたくないこの男と二人きりとなっている。
とりわけ今夜は世界中で一番顔をつきあわせたくないはずの顔が、すぐそこで微笑んでいる。
「お口に合いませんでしたか?」
津田そっくりの若い男が、微笑を浮かべたまま、辛抱づよく同じ問いかけを繰り返した。
「え? ああ、いや、美味しかったよ。最初のアレよりはかなり」
ここ数日、ふたりがつくる夕食を食べさせられていた大賀だが、最初の茶碗蒸しなどは正体不明の物体となって器から飛び出しており、味がどうこう言う以前に、食べ物とは思えない食感であった。
「あれは……すみません。今度はもっと上手にできると」
「またつくるのか?」
思わず本気でぎょっとした大賀に、男はふっと表情を崩して微笑んだ。
「はい、今度は上手に」

――津田がこうしてここにいたら

ふと浮かんだ言葉を、大賀はすぐさま埒もない妄想だと振り払った。
津田敬司朗に、聞きたいことがある。
しかし、津田が生きてこの世にいたとしたら、大賀はこの屋敷へ来ることもなく、柳井晶子の存在を知ることもなく、津田と知佳子が円満な夫婦であると信じたまま、今かかえている疑問に出くわすことも無かったはずだ。
長原が調べ出した高木敦也という男とは、ほんの少しだけ会話をすることが出来た。
正確に言うのなら、ほんの少ししか会話をすることが出来なかった。
同じ嗜好を持つ者が集まるバーで、偶然を装って出会い、親しくなって話を聞きだすという長原の思い描いた陳腐な筋書きは、実現しなかった。
最初からひどく落ち着かない気分にさせられた高木敦也は、顔立ちそのものは大賀とまったく似ていない。
ただ、身長や肩幅、首をかたむける仕草、低い落ち着いた声と、そして話し方。
それら全てに奇妙な既視感がある。
知っている「誰か」ではない――この男は、大賀自身を思い起こさせる。
驚くほど自分と似た雰囲気を持つ相手を眺めているうちに、大賀はしだいに口数が少なくなっていった。
ついには耐え難くなり、長原の非難がましい視線を無視して「予定があるから」とスツールを降り、店を出た。
混乱する頭で、とりあえず三鷹へ帰ろう、と腕時計を睨みつけながら歩き始めた時だった。
「大賀さん」
声をかけられて振り返り、心底驚いた。
そこに立っていたのは、先ほどまで店にいたはずの高木敦也だった。
「大賀さん、でしょう」
大賀は、数分前まで初対面のバーの客同士として会話をしていた男をまじまじと見た。
あらためてこうして立って向かいあってみると、目線までもが同じ高さだ。
すぐに戻るつもりであるのか、ただ単にあわてていたためなのか、コートも着ておらず、手ぶらの様子だった。
「どうして名前……」
「言わなきゃ分からないかな」
相手は苦笑して、ゆっくりと大賀へ歩みよった。
「どうせ『あの人』のことでしょう。どこで知られたんだか、フリーライターみたいな連中には追いかけられたけど、まさか本人が来るとは思わなかった」
「本人……?」
「本物、オリジナル。どう言ったらいいのかな。俺はあんたをよく知ってるよ。話し方も言葉の選び方も笑い方のちょっとしてクセも。ビデオ学習させられて――そういう契約だったんで」
そう言って口元を歪め、皮肉な笑みを浮かべる高木敦也は、先ほどまでの店の中にいた男とは別人のように見えた。
「……嘘だろう」
思わず呟いた言葉に、高木敦也は声を上げて笑った。
「そう、嘘みたいだろ。まったく、金持ちの気持は分からんよ。金をくれて仕事をくれて――失業中の俺にはありがたい話だったけど」
けど、と発作的な笑いをおさめて、男は大賀を見た。
「いくらもらおうと、何をしてもらおうと、誰かの代わりなんて気持のいいもんじゃないさ。どんな理由があっても、なくてもさ」
「津田さんが……、俺の真似をさせたのか?」
ようやく喉からしぼりだした大賀の声は、低くかすれていた。
高木敦也は、ニヤリと笑ってみせた。
「さあ、どうだろう。あの人のシュミをもっと聞きたいか? 乱暴に扱われるのが好きで、よく俺に――」
「やめろ!」
思わず、大賀は高木敦也の肩を掴んでいた。かすかに鼻腔をかすめた匂いが、自分が時折つけることのある香りであることに気づいて、大賀は愕然とした。
「わかっただろ?」
間近にある男の目が、嘲笑うように大賀を覗き込み、乱暴に腕を振り払った。
そのまま背を向けて歩き出し、高木敦也が店の入口へ戻っていくところまでを見届け、大賀もまた背を向けた。

――あの人の愛人は、いつもあなたにそっくりだから

知佳子の捨て台詞のような言葉を、大賀は信じてはいなかったが、しかし。
(それより悪い)
現実はそれより酷い。似た男に金を払って、わざわざ学習させ、人真似をさせるとは。
胸がむかつく。気分が悪く、どうしようもない。
津田を聖人だと思っていたわけではなかった。
むしろあれだけのビジネスを成功させた裏で、手を汚してきた男だろうと分かっていたはずだ。
津田に他人に言えない欲望があろうと、ひそかな楽しみを持っていようと、誰に迷惑をかけていたわけでもない。
理屈では、分かっている。
(それなのに)
駅について電車に乗るまで、どこをどう歩いたのかさえ記憶になく、まともに物を考えることができなかった。
これほどのショックを受けるとは、まさか自分ともあろう者が、この程度のことで「他人に裏切られた」気持になろうとは、思いもしなかったのだ。


「あの……何かありましたか? お仕事で?」
調理台兼食卓で茶を淹れながら、津田に似た男が穏かに尋ねてくる。
元々が饒舌な性質ではないが、今夜の自分は付き合いの浅いこの男にさえ分かるほど、がっくりと気落ちして見えるのだろうかと、大賀は軽く頭を振った。
「仕事――いや、そうじゃない」
そして気分を変えるために、気になっていたことを男に尋ねてみた。
「それより、昼間は何をしてるんだ?」
「誰がです? 晶子ちゃん?」
きょとんとした表情で、男が大賀を見る。
「誰って、あんたに決まってるだろう」
「え、僕ですか?」
何故かびっくりしたように目を見開いて、男は困ったような顔をした。
「ええと、その。晶子ちゃんに教えてもらって、掃除とか洗濯とか鯉にエサをやったりとか……たまには買物で外に出たりしますけど」
「ふうん」
あの晶子が家事を教えることなど出来るのだろうかと疑問に思ったが、元からそれほど興味があって尋ねたわけでもなく、大賀は気のない様子で頷いた。
そこへパタパタと軽い足音がして、柳井晶子が飛び込んで来た。
「大賀! ねえねえ、日曜日いっしょに公園に行かない?」
「なんで」
「何でってことないでしょー。天気よさそうだし、みんなで井の頭公園まで散歩に行こうよ」
「だから、何で俺が」
「いいでしょ、ねっ、頑張ってすっごい豪華なお弁当つくるから!」
「弁当はかんべんしてくれ……」

その後の出来事を予測することは、大賀でなくとも不可能だった。
大賀と晶子の他愛ない会話を、くすくすと笑いながら見ていた若い男は、約束の日曜の朝には姿を消していた。
跡形もなく。
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