水上奇譚

19話「ミッシングリンク」


投げられた小石は水面を跳ねて、最後には池の底へと沈んで行った。
石が跳ねた数だけ水の上に残された円い波紋が、音も無く広がり、そして消えていく。
波ひとつない鏡面のような池を睨みつけ、大賀はひとつ溜息をつくと、その場へ腰をおろそうと屈みこんだ。

「……それ、どうやるんですか?」

らしくもなくコントのように滑って尻餅をついてしまったのは、その声のせいに他ならない。
いつの間にか後ろに立っていた男が、おだやかに大賀へと微笑みかけていた。



「おい、あの男は何なんだ?!」
「7回目」
「なに?」
「大賀がそれ聞くの、7回目」
振り返らずに言う晶子の手元を見て、大賀は喉元まで出かかっていた不満を一瞬にして忘れてしまった。
「……それは……待て、さっきから何してる? そのネギをどうしたいんだ?」
土間でもありそうな古風な柳井家の屋敷の台所は、現実には最新式のシステムキッチンが備えられた銀色にかがやく空間だった。
厨房と言ってもおかしくない広さのそこに、二人暮しには似つかわしくない業務用の大型調理器具がそろっているのを見て、大賀は首をひねった。
柳井一族は確かに桁はずれの資産家だが、これは贅沢と呼ぶには非合理に過ぎる設備ではないだろうか。
事実、先ほどから包丁を握っている小柄な柳井晶子には調理台の高さが合わないらしく、足元に目をやれば、やや爪先立ちになってしまっている。
「どうって、朝だから、朝ごはん。お味噌汁ってネギ入れるでしょ? 大賀はネギきらい?」
きょとんとした表情で晶子は聞き返すが、大きなまな板の上に乗せられた長葱は、ふぞろいの乱切り状態となっている。そして見れば調理台の大きなボウルの中にはすでに同様のネギが山盛りになっているのだ。
「味噌汁――?」
「うん、ごはんは3合炊いた。足りるよね?」
「足り……? まあ、足りないことはないな……」
誰がそんなに食べるのかと天井を仰いでから、大賀は仕方なくシャツの袖をまくり、「手伝おう」と申し出た。


池で溺れていた若い男は、まったく目を覚ますことなく昏々と眠り続けた。
大賀としては叩き起こしてでも素性を聞き出したいところだったのだが、見れば見るほど津田に似た顔立ちの人間が蒼白になって横たわる姿を目にしてしまうと、奇妙なことに勝手に足が止まってしまい、どうしても半径1メートル以内に近寄ることが出来なかったのだ。
晶子に懇願されて仕方なく屋敷に泊まったものの、奇妙な状況に苛立ちながら眠れずに過ごしたためか、大賀は朝から鈍い頭痛に悩まされていた。
煙草でも吸おうかと池の端に行ってみれば、いつの間にか例の男が後ろに立っていたりする。
「……あれ、みなさんここにいたんですか?」
何度聞いても、ぎょっとするほど津田に似た声がして、戸口に「例の男」が顔をのぞかせていた。
津田の服を着て。
「おい――」
大賀が思わず声をあげた。
さきほど背後に立たれた時には、ろくな会話もせずに逃げ出した大賀であったが、ここへ来てようやく戸惑いが去ったのか、怒りのようなものが身内にわいてきた。

いったいこの男は何のつもりでこの家を訪れ、その姿でうろつくのか。

故人を知る大賀が、自分でも説明のできない不愉快さに一歩踏み出すと、剣呑な空気を察知した晶子が「大賀」と声を発した。
「その人はうちの遠い親戚だから、ケンカしないで」
「親戚? 親戚がどうして池で溺れてるんだ?」
大賀は眉を上げた。
昨日の晶子の不安定な様子といい、不審な態度といい、突然現れたこの男が、単なる親戚であるわけがない。そもそも、いきなり電話で「助けて」と呼びつけた理由さえ聞いていない。
しかし昨日はただ震えていただけの少女は、今朝は奇妙なほど落ち着きを取り戻しており、
「なんで親戚が池で溺れちゃいけないわけ?」
と口をとがらせた。
「話をすりかえるな。俺が言ってるのは――」
「あの、僕も何か手伝いましょうか?」
急に割り込んできた男に、大賀は自分でも滑稽なほど、ぎょっと体をこわばらせた。
「あ、ありがと。そこのお皿ならべてくれる?」
「これですか? 箸は?」
「その棚の下の引き出し、あ、そうそう、そこ」
「……おい!」
「お腹すいちゃったー。大賀も早くしないと会社に遅れるよ」
「ああ、会社に行くなら急いだほうがいいですね」
「……待ておい、ひとの話を聞け!」
何事もなかったように和やかに朝食の支度をする二人に、どうして自分だけがカリカリしなければならないのかと、大賀は腹を立てながらついて行くのだった。


「じゃ、出るから」
「……うん」
「学校は? いいのか?」
「うん」
まだ生乾きの服を身に着けて、大賀は柳井家の玄関に立っていた。
大賀が身支度を始めてからというもの、晶子はふたたび落ち着きを失くし、何か言いたげな様子でずっと大賀の後をついてまわっていた。それでいて何を聞いても、意味のない「うん」という頷きを繰り返すばかり。
問いかけることを諦めて靴を履いていると、晶子がようやく小さな声でこう言った。
「大賀、あの……あの、怒ってる?」
華美ではないが広くすっきりとした柳井家の玄関で、大賀は振り返った。
「俺に、何か言いたいことは?」
逆に問い返されて、柳井晶子はハッとしたように目を見開き、立ちすくんだ。
「……無いなら、いい」
背を向けて、そのまま出て行こうとした大賀は右肩にかるい衝撃を受けた。
足元にころがったスリッパを見て、それを投げつけられたのだと悟る。
「何を――」
思わず振り返ると、もう片方のスリッパを握りしめた柳井晶子が、目に涙を浮かべて立っていた。
「……だって! だってしょうがないじゃない! なんて言ったって大賀は文句言うんじゃない! し、信じてなんてくれなくて」
大粒の涙が、茶色の瞳からこぼれ落ちた。
興奮のあまり、顔を赤くして、肩をふるわせて。
「最初から言ってるじゃない! さん、三週間だけでいいから、お願いだからここにいてって、ずっと……!」
「あれは――お願いじゃなくて脅迫だろ」
あの初対面の夜の出来事を指摘すると
「だからゴメンって言ってるのに!!」
と怒鳴り返される。
謝罪などされただろうかと疑問が浮かんだが、大賀は「分かったよ」と答えていた。
「分かった。とりあえず今夜は、こっちに来るから……」
「ほんとう? ほんとうに来る? 帰ってくる?」
「来るから、もう行かせてくれ」
溜息をつきながら、小さな手を振りほどく。
待ってるから、と言い続ける少女を振り返ることなく、大賀はその場を立ち去った。
単純な後悔とも違う、不可解な澱のようなものが、大賀の胸によどんでいた。
うっかり好奇心をおこしたおかげで、おかしなことになってしまった気がするのだが、何か……

(何か俺は見落としているんじゃないか?)

いや、すでに自分は知ってることを、上手に並べられずにいるだけではないか。
頭が痛い、と大賀は首を振った。
この頭痛さえ、思考停止のために自分が生み出した痛みのような気がして、大賀は足をとめてしまった。
思うところあって、そのまま門を出ることなく、足早に庭へとまわりこむ。
木の陰から、そっと庭をのぞきこむと、松の木の向こう、池のほとりに佇む男の姿がある。
穏かな横顔は、まるで自宅の庭にでもいるように落ち着いて見える。片手が動いているのは、池の鯉に餌でも与えているのだろうか。

――津田に似ている

さざ波のように、奇妙な既視感が大賀の胸に打ち寄せていた。
この男は津田にとてもよく似ている。
それは一目で分かったことで、故人を知る誰が見ても同じように言うに違いない。

(でも)

それ以外の誰かにも似ていて――どこかで会っている気がするのは何故だろう?
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