水上奇譚

18話「グレア」


次の水音で、大賀は我に返った。
陽射しの反射の眩しさに見逃していたのか、池の中央に黒い影がある。
大きな魚――のわけがなく、目をこらして見ると、それはうつ伏せに浮いた人間だった。
「……おい!」
思わず大きな声で呼びかけたが、反応はない。
「……大賀?」
追いついて来た晶子が、池に浮いた人間を見て足を止めた。
「おい、ちょっと手を貸せ」
先に池に足を踏み入れていた大賀が顎で示すと、晶子の後ろの少年は慌てて池に飛び降り、腰まである水をバシャバシャとかきわけるようにして大賀の後をついてきた。
一足先に辿りついた大賀は、その人間にふれて驚いた。
何故と言われても説明は出来ないが、なんとなく時間の経った水死体ではないかと思っていたその体は、意外にもまだ温かい。
白いシャツに茶のズボンという服も傷んではおらず、長く水に浸かっていたようではないなと大賀が考えながら、とりあえずうつ伏せの体を引っくり返すと、蒼白い、若い男の顔が現れた。
目と口は堅く閉じられて、苦悶の表情を浮かべている。
「し、死んでる?」
「さあ、死んだとしても、死にたてだな」
裏返った声を上げた少年に、大賀が平板な口調で応じる。
傍目には冷静に見えるであろう大賀の頭の中では、疑惑が渦巻いている。
(ここが、うっかり溺れるような池か?)
足を持つように指示して、自分は男の脇に腕を入れて抱え上げると、意識のない水に濡れた着衣の体は、想像よりもはるかに重かった。
「なあ、ホントに大丈夫?」
ようやく引き上げて池の端に横たえた男の顔を、不安気な少年が覗き込む。
「さあ。水を飲んでなきゃいいんだが……あ、動いてるな。それ、上着を取ってくれ」
大賀は男の胸に耳をあて、心臓と肺が動いている様子に満足すると、蒼白のまま立ち尽くす晶子へ「救急車を呼んでくれ」と言い置いて、少年から自分のコートを受け取った。
春物の薄いコートをまるめて男の首の下に入れ、気道を確保する。
黙々と型どおりの応急処置を行う大賀の横で、少年がいまだに立ち尽くしている晶子に気づいて「ショウコ?」と呼びかけた。
「俺の電話、そこのカバンに入れてっから、使って」
リズムをとって心臓を押し始めた大賀が顔を上げると、地面に放り捨ててある自分の荷物を指差した少年に向かって、柳井晶子は首を振ってみせた。
「え? どうした? じゃ俺がかけるけど?」
カバンを手にとろうとした少年から、柳井晶子が素早くそれを奪い取る。
「……かけたら駄目!」
カバンを胸に抱え込んでの悲痛な叫びに、大賀までもが驚いていると、すぐ下からゴホッという咳が聞こえた。
始めたばかりのおざなりな心臓マッサージが運よく功を奏したらしく、男が水を吐き出したのだ。
さらに咳き込む男の上半身を起こしてやり、激しく痙攣する背中に手を置いた大賀は、奇妙な違和感を覚え始めていた。
最初はそれが何であるのか、分からなかった。
「あ――ありがとう、ございます」
苦しげに咳き込む横顔から発せられた男の声に、背にあてていた大賀の指がビクッと震えた。

――今のは?

「あの、ここは……」
いぶかしげに周囲を見回して、最後に大賀を正面からとらえた、ずぶ濡れの男の端整な顔。
乱れた前髪の先からは、まだ水がしたたり落ちている。
「あれ? もしかして、あなたは……」
大賀を見とめて、男の目に、知っている人間を見つけた時のような光が浮かんだ。
大賀はぎょっとして身を引き、思わず立ち上がる。
「……どういうことだ?」
大賀が詰め寄った相手は、柳井晶子だった。
「どういうつもりだ……これは何の冗談だ?」
大賀に腕をつかまれた裸足のままの少女は、肩を震わせて、首を横に振った。
「ちがう……」
「何が違うんだ。それなら、どうしてこんな!」
叫んで男を指差す大賀に、少年が困惑したように口を挟んだ。
「おい、どうしたんだよ? 救急車よぶんだろ?」
大賀と晶子は振り返り、同時に叫んだ。

「呼ぶな!」
「呼ばないで!」

「あの……すみません」
まだ小さく咳き込みながら、男が大賀を見た。
「皆さん、片庭さんの家の方ですか? 僕はどうして池なんかに……?」
広大な池とずぶ濡れの自分の姿を交互に眺め、不思議そうに尋ねてくる。
大賀はごくりと喉を鳴らした。
「……あんた、名前は?」
高まる緊張の中で、その若い男は軽く頭を振ってしたたる水を邪魔くさそうに払いながら、何でも無さそうに「津田敬司朗と言いますが」と言ってのけた。
そして立ち上がりながら背後を見やり、不思議そうに首をかしげた。
「あれ? ここは……片庭さんのお宅ではないんですか?」
男の振り返った方へ視線を転じると、夕陽が池の水面に反射して、きらきらと光を躍らせている。
その光の乱舞の向こう、暮れなずむ風景の中で、水の上に浮かぶ屋敷。
そこにあるのは、当然ながらかつての威容を誇る片庭邸などではなく、清々しいたたずまいの柳井家の屋敷であった。



(本物のわけがない)
大賀は即座に結論をくだした。
(どれほど顔が似ていようが、声が似ていようが、関係ない)
津田敬司朗は先月のうちに亡くなっている。
享年47歳。大賀だけではなく千人以上もの人間が葬儀で遺体の顔をしっかり見ているのであり、そもそも津田が自分の死を偽装する理由もない。
(ばかばかしい、本当に、ばかばかしい)
だいたい、あの男はどう見ても大賀より若そうではないか。
イライラと柳井家の磨きぬかれた長い廊下を歩きまわっていると、いつの間にか背後に茶器をのせた盆を手にした晶子が立っていた。
「あの……お茶、大賀も飲む?」
この少女にしては気弱な態度で、おそるおそる大賀へ声をかけてくる。
「話す気になったのか?」
高い位置から晶子を睨みつける、大賀の声は低かった。
「え?」
「どうしてあんな男を連れてきたのか、話す気になったのか?」
「それは……」
晶子が困ったように足元へと視線を落とす。
大賀の理解の及ぶ範疇で解釈すると、理由は置くとして、津田にあれほどよく似た男を探し出してくるなど、この晶子の企みであるとしか思えないのだ。
そこへ、廊下の先から「おい!」と声がかかった。見れば晶子の連れの少年が戸口から顔を出して、元気よく手を振っている。
「何してんだよ、こっちの部屋だって!」
晶子の手が伸びてきて、大賀の袖をつかんだ。
「大賀も来て」
思いつめたような表情だった。
「いやだ」
それなのに、とっさにそう答えたのは、ただの意地であったのかもしれない。
案の定、晶子は床を踏み鳴らして怒り出した。
「何でヤなの!」
「いやなものはいやだ」
「来てって言ってるだけなのに! ケチ! 大賀の××で○○○!」
「勝手にひとをインポにするな!」
「……なにやってんだよ、こっち来てくれよ!」
痺れを切らしたような少年の呼びかけに、仕方なく大賀は言い争いを中断して、いかにも嫌々ながらという態度で、その部屋へと足を踏み入れた。
「なあ、このひと寝ちゃったんだよ。急にだるいって言い出して……」
そこは不思議な円形の窓を持つ客間で、晶子自身はこの部屋を「月見の間」と呼んでいた。
その名のとおり満月をあらわしたものであるのか、障子も窓の意匠に合わせて、円形につくられている。
このような場合でなければ、大賀は窓を開けて造りを見てみたりしたかもしれないが、今はそのような好奇心よりも、そこに横たわる人物のほうが問題であった。
すやすやと安らかな寝息をたてて、その男は眠っている。
布団に横たわる姿は、着替えを済ませて小ざっぱりとして見えるが、この家にある男物の服ということはつまり、本物の津田自身の服であるはずだ。
月見の間とはいえ、夕暮れどきの現在は、夕陽がぼんやりと射しこみ、部屋全体にやわらかな影をつくっている。
複雑な思いをかかえて、大賀はやや離れた位置から男を見下ろしていた。

――近くで見たら、意外と似てないかもしれないじゃないか。

そう自分へ言い聞かせながら、大賀は何故かその一歩を踏み出せないでいる。
そのくせ、あまりに見慣れたものと似すぎている横顔から、目が離せない。

「信じてくれないかもしれないけど――」
膝をついて男の顔をのぞきこんでいた晶子が、ポツリと言った。
「あの人と、約束してたんだ」
「……どんな?」
やれやれという思いで、大賀は投げやりな調子で聞き返した。
まったく今日はさんざんな一日だ。知佳子は自殺をするし、津田そっくりの男は池で溺れているし、その疲れのせいか、片庭家の屋敷の幻まで見てしまった。タオルをかりて拭いたものの、下半身は下着まで濡れていて気持が悪く、池の水特有の臭いがする。
挙句に今度はこの少女が、なにやら秘密めいた告白をしようとしているとは。
うんざりした大賀の様子などお構いなく、晶子は語りはじめた。
「自分が死んでも、ここは取り壊しちゃダメだって。あんたが来るまで、ここはこのままにしておいてくれって――意味は分からないけど、そう、そうしないと……」
晶子が顔を上げて、大賀の視線をとらえた。

が閉じないから、って」


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