水上奇譚

17話「水の上に」


「何があった?」
三鷹駅からタクシーに乗り込み、駆けつけた大賀を門前で待っていたのは、見覚えのある少年だった。
「分かんないよ。俺は中に入れてもらえないんだ」
大賀の会社にまで現れたことのある少年は、あの日と同じ制服姿で、不安そうに背後の屋敷を振り返る。
ここから見る限りでは、柳井家はしんと静まりかえっていて、人の気配はなく、閉ざされた門の向こうで何かが起きている様子はない。
「あいつ学校に来ないし、電話も出ないし。ここで呼んでも、あんたじゃなきゃ話さないって、そればっかり」
言葉とは裏腹に、心配そうなその口ぶりには、ここで待ちぼうけをくわせている本人への不満も、大賀への反感も見て取れない。
大賀が襲われた時の彼らの様子といい、柳井晶子という少女の支配力というのは、大賀が思うよりも強いものであるらしい。
かつて目の前にした母親の柳井美保の威厳に満ちた横顔を思い浮かべていると、いきなり門が開け放たれた。
「……おおが!」
「うわっ!」
まるで子猫に飛びつかれたような感触だった。
思わず声をあげたのは、晶子に抱きつかれた大賀本人ではなく横にいた少年で、大賀はといえば何事もなかったかのような顔で「何かあったのか?」と尋ねたのだが、目線はしっかりと少女の裸足の足をとらえていた。

――何があったのか?

「昨日から……昨日から、ときどき、見えるんだ」
しがみついたままの晶子が、顔を上げることなく、途切れがちな言葉を口にする。
「……見える?」
晶子は何度か頷いた。大賀にもはっきり伝わるほど、その小さな体はガタガタと震えている。
大賀の問いかけるような視線に気づいて、「わからない」というように傍らに立つ少年は困惑した表情で首を横に振った。
「何が見えるんだ?」
大賀が穏かに先を促すと、「……上に……」と、くぐもった晶子の声が聞こえた。
「なに?」
「水の、上に――」
その言葉にかぶさるように、バシャンという、派手な水音が響きわたった。



「それはつまり、自殺ってことなのか……?」
睡眠薬の過剰摂取という、ありがちな知佳子の入院の理由を耳にして、大賀は暗澹たる気持になった。
「まだ、はっきりとはわかんないけどさ。本人も話せる状態じゃないみたいだし」
電話の向こうの利章の口調も沈んでいる。
「おまえ、今どこだ? 病院?」
「ちがう、営業先だよ。高円寺。仕事上がったら行くつもりだけど、慈恵医大って場所分かる?」
「慈恵……ってことは自宅じゃないな。ホテルにでも泊まってたのか?」
比留間克哉から受けていた報告では、先週までの知佳子の逗留先は逗子であったはずだ。港区にあるその大学付属病院は、代官山の津田夫妻のマンションからも離れている。
「うん? ああそう。虎ノ門かどっかそのへんに泊まってたみたいでさ。チカさん、今度の騒ぎのことでウチの親戚だけじゃなくて実家とも揉めちゃって、行くとこなくてあちこち転々としてたみたいなんだ」
「そうか」
週刊誌に顔を出して身内のスキャンダルを暴露すれば、当然の話ではある。しかし利章は「おれさ……」と声のトーンを落とした。
「おれ、一昨日くらいに、1回だけチカさんと電話つながってさ、ちょっと話したんだよ」
「電話に出たのか?」
「うん。それでさ、なんかチカさん興奮してて話にならなくって、ついキツイこと言っちゃって――」
あれが悪かったのかな……、と続けた利章の声は消え入りそうだった。
「別に、おまえは悪くない」
大賀は確信をこめて、はっきりと口にした。
「だって、おれが責めたせいかもしれないだろ」
「それはない」
間髪いれず否定したあとで、自分でも思いがけず、大賀の口元に微笑がひらめいた。
利章が説明しようとしない会話の内容がどのようなものであったのか、大賀には見当がついていたのだ。
「……おまえは俺に聞かないんだな」
「何を?」
「チカさんは、俺が津田さんの愛人で、津田さんを陥れたと思ってる。おまえはそれが本当かどうか、聞かないんだな」
一瞬の沈黙のあとで、大賀の耳に利章の怒声が飛び込んできた。
「馬鹿にすんな! そういうつまんないこと、二度と言うなよ」
「電話で怒鳴るなよ……」
「怒鳴るよ! ばかやろう! もう切るからな!」
利章は気のいい男だ。
この性質の良さは、叔父である津田が守ってやったものかもしれないと思いながら、「頼みがある」と大賀は切り出した。
「誰でもいい、そばに人をおいて、あの人が無茶をしないように見ててやってくれ」
「チカさんに? 頼まれなくてもするけど、おまえは?」
「俺は当分、顔を出さないけど――でも、そのうち行くよ」
そのうちに、長原が何か新たな情報を持ち帰って来た時にでもと、大賀は胸の内でつけ加えた。
その長原のオフィスのあるビルを出て、大賀は都会の雑踏の中でふと足をとめた。

確かに、津田はひどい男なのかもしれない。
家の一大事には体をはり、頼ってくる親族の面倒をみてやり、恩をうけた愛人との間に子供までもうけ、それでいて正式な妻を得て穏かな家庭生活をつづけてきたのだ。
誰ひとり捨てることなく――誰ひとり選ばずに。
(罪なことを)
ふいに浮かんだ言葉に、大賀は今度こそ苦笑した。
人生のあらゆる局面で、いつも容赦なく選び切り捨てて来た自分のほうが、罪という言葉にふさわしい人間であるだろうに。
(似ているわけがない)
大賀と津田は実はよく似ているのだという利章の主張を思い出しながら、首を振る。
こうして今回も大賀は自ら片方を選びとり、晶子の待つ三鷹へと向かったのだった。


――バシャン、という派手な水音。
「今のは……?」
池の鯉がはねたにしては、大きな音だった。まるで何か、大きなものが水に叩きつけられた時のような。
大賀はしがみつく晶子をそっと押し戻すと、脇をすりぬけて勝手に柳井家の門をくぐった。
誘われるように入り込んだ庭には、よく知った風景が広がっている。
よく知っている、庭木の位置と、湖のように広い池と、その向うに建つ……
何気なく顔を上げた大賀は、よく知った、あるはずのない光景に驚愕して呼吸を止めた。
黄昏の中に佇んでいるのは、三階建ての巨大な洋館と、洋館につなげられた由緒ある書院づくりの旧館。
とうの昔に失われたはずの、片庭家の屋敷だった。


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