水上奇譚

16話「緊急コール」


それまでの埋め合わせのように、大賀は休日を香織の部屋で過ごした。

「なんだかねえ、変な手紙が来てたんだけど……気持が悪くて捨てちゃった」
と言って、振り向いた香織が顔をしかめる。

あれこれと言訳を考えていた大賀が拍子抜けするほどに、今回の騒動は彼女の耳に届いていなかった。
香織が転職をしたのは、先月のことだ。
大手化粧品会社で商品の販促を担当していた香織は、今は新しく化粧品部門を立ち上げた健康食品の会社にいる。新しい職場という自身の大きな環境の変化のさなかにあっては、世間のゴシップどころではないらしく、熱心に話して聞かせるのは自分の仕事のことばかりであった。
――香織の言う「変な手紙」とは、知佳子が出したものだろうか。
考えこむ大賀に、小さなキッチンで紅茶を淹れていた香織から声がかかった。
「そうそう、そういえば、社長さんが亡くなったって言ってなかった?」
香織の言う「社長さん」とは、実際には会長であった津田のことだろう。
香織には、津田と個人的な付き合いがあることを話したことはなかったが、もしも津田が生きていたら、いずれ紹介するつもりでいた。
「ああ……」
大賀は微笑んだ。

もしも、津田が生きていたら。

今となっては、香織には関係のない話だ。
つけたままのテレビからは、さして興味のない洋楽のPVが流れ続けているだけであったが。
「社葬に出たよ。ずいぶん立派な葬式だった」
画面から目も離さずに、大賀はそう答えたのだった。



長原貞明 ながはらさだあき とようやく連絡がとれたのは、翌週のことだった。
「なんだこりゃ、どっから撮ってんだ」
大賀が差し出した写真を見るなり、長原は馬鹿にしたように鼻で笑った。
電話で指定された場所は、都心の高層ビルの中にある、いまどきの若い起業家が利用するような賃貸オフィスの一室だった。
フロアの入口には共有の受付があり、来客の取次ぎや不在時の電話応対などの秘書サービスが提供される。
机とパソコンと電話の他にあるのは、高層から見下ろす景色だけ、というシンプルな細長い部屋を見まわして、大賀は「今はここに?」と尋ねた。
写真を手早くめくっていた長原は「え?」と顔を上げて、形よく整えられた眉を慌しく上下させる。
「ああ、違う違う、ここはウチの新しい商売だよ。使い勝手をお試し中ってやつでね」
言いながら手を振る中指には、紅い石のついた指輪がはめられていた。
イタリア物の派手なスーツが似合いの、この痩せた中年男とは、大賀が10代のころからの長い付き合いになる。

「……しろうと臭い仕事だなあ、これ。こんなもんに幾ら払ったんだか。津田の奥さんて何? どういう人だっけ?」
「まあ、堅い家庭のお嬢さんだよ。父親が私大の教授で、お祖父さんが日本画家」
壁にたてかけてあった来客用らしきパイプイスを手にとり、大賀はみずから座る場所をつくる。
「ああ、文化人系ねえ。でも稼ぐ画家は相当稼ぐからなあ」
ぶつぶつ独り言を言いながら、顔も上げずに手元のノートに何事かを書き込んだ。
長原は知佳子について、矢継ぎばやにいくつかの質問をする。

「ダンナと知り合ったのは?」
「友達の紹介って言ってたな」

「おまえに言い寄って来たことは?」
「一度もない」

「子供いないのは何で?」
「何年か前までは、不妊治療に通っていたらしいけど……諦めたのかもな」

「へえ、おかしいな。あの財力で本気で欲しけりゃ、叶わない話じゃないぜ。子供をつくる、ってことが目的ならな」
それまで黙って頷いていた長原が、意外な部分に異を唱える。
「そうなのか?」
目を見開いた大賀を無視して、長原は手入れの行き届いた指先で顎を撫でながら、視線を宙に浮かせた。
「あー、まあ、あれか。つまりどっちかが自然な受精にこだわったか、どっちかが乗り気じゃなかったってことだろうな。それならアリだな。ふうん」
独り言のような長原の言葉に、大賀の頭に浮かんだのは柳井晶子の存在だった。

津田は知佳子との子供をつくることに、乗り気ではなかったのだろうか。
晶子の存在があったから?

一見それで感情的な説明はつきそうだが、考えてみれば腑に落ちない理屈である。
よそに子供をつくっておきながら本妻との子供を欲しがらないというのは、いったい誰に対する贖罪のつもりだろう。
柳井美保か? 
娘の晶子だろうか?
いずれにしても、それが妻である知佳子でないことだけは確かだった。
変わり果てた知佳子の面影が脳裏をよぎり、大賀は再び憐れみを覚えた。

「よし、だいたい分かった。で、店じゃなくて要するに、この写真の男が何者なのか分かればいいんだろ?」
長原はすっかり満足した様子で、机の上でトントンと写真の端をそろえている。
短時間のうちに目的を達した大賀だったが、立ち上がりながら、ふときざした疑問を口にした。
「そうだけど……今の質問と、この写真に何の関係があるんだ?」
「ないね」
大賀の表情の変化を見てとり、長原は自分の目の前で手にしたペンを振ってみせた。
「おいおい、俺という人間の好奇心を満たすのも大切だぜ。動機があるとなしじゃあ、働きに差が出るもんだろ」
長原のおどけた仕草の中に見え隠れする、かすかな脅え。
大賀はしばらく無言のまま長原を見つめ、
「……そうかもしれないな」
と言って、口の端だけで笑った。
長原はやれやれというように大げさな身振りで立ち上がると、大賀のために扉を開ける。
「おっかない顔しなくても、出資者さまのご命令とあれば、ちゃんとやるよ。やりますよ」
「頼むよ」
大賀が薄く微笑んだのは、満足したからだった。
ひとまわりは違う年齢といい、一介のサラリーマンと実業家という境遇といい、傍目にはそう見えることはないだろうが、実際にスポンサーの立場にあるのは大賀のほうだった。
しかし長原が大賀の頼みを断わることが出来ないのは、本人がそう思いたがっているように、商売に金を出してもらっているためではない。
長原の中には、いまだに自分に対する恐怖が存在するのだ。
さぐりあてた冷たい感触に満足して背を向けながら、どうして同じことが比留間克哉に通用しなかったのだろうと考えた。


エレベーターホールを出たところで携帯電話に呼ばれ、表示を見ると香織からだった。
珍しいこともあるものだと大賀は首をひねった。
香織が勤務時間中に電話をしてくることなど、滅多にない。
「どうした?」
「ああ、よかったつながった!」
ホッとしたような声が耳に届く。
「あのね、利章くんが急いで連絡をとりたがってるみたいよ。新しい番号、教えてないでしょ」
香織の声は早口の囁き声で、どうやらオフィスを抜け出して廊下で話しているらしい。
「利章?」
言われてみれば、大賀の元の携帯電話が破壊されたのは利章と酒を飲んだ夜であり、あれ以来、利章とは連絡をとっていなかった。
「ああ、悪い。あいつ何だって?」
「電話くれって。誰か家族のひとが救急車で運ばれたみたいなの」
「家族?」
「うん。困っているみたいだから、すぐ電話してあげて」
そう言い残して香織の電話は切れてしまい、足早に歩いていた大賀は歩調をゆるめた。
家族。
確かに友人ではあるが、利章の家族が入院したところで、大賀に緊急の用事が発生するわけがない。

――知佳子に何か?

「大賀?」
無意識の仕草で耳にあてたところ、携帯電話から聞きなれない声がした。
「大賀? ねえ大賀じゃないの?」
表示された番号に見覚えはなかったが、大賀は柳井家を去るときに晶子に渡しておいた名刺のことを思い出した。
「俺だ。どうした? どこからかけてる?」
大賀の問いかけに、柳井晶子が震える声で繰り返した。
「たすけて……お願い、たすけて大賀」

いったい自分に振られたのは、この一連の劇の中の、どの部分の役割なのだろう。
津田敬司朗をとりまく彼女たちの事情に、自分が何のかかわりを持つというのか。

泥沼の気配を察知して、大賀はふたつの呼び出しの間で立ち尽くした。

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