水上奇譚

15話「光る螺旋」


津田は不思議な男だった。
すでに成功した実業家でありながら、津田敬司朗はまだ10代の学生であった初対面の大賀に対して、最初から気安い態度で接してきたものだった。
それは自分自身へ向けられた感情なのではなく、可愛がっている甥の友人という立場への好意だろうと、大賀は深く考えることをしなかった。
他人の好意を利用しつつ生きてきた大賀は、向けられる視線には敏感だ。
もしも津田が、そういう意味で大賀に興味を抱いたのなら、瞬時に見抜いていたはずだ。
しかし津田からはその種の緊張感は感じ取れず、むしろ大賀の前では力の抜けた飾らない様子で、古くからの友人といるかのように、いつもいつも、安心しきってくつろいでいるように見えたのだった。


「会社行ってたんじゃなかったのか? なにウロウロしてんだよ」
助手席へ乗り込んできた比留間克哉は、まるで保護者のような口をきく。
四谷駅前の指定された場所に停車して、しばらく比留間を待つつもりでいた大賀は、すぐにウィンドウを叩かれて驚いた。
「早かったな」
「あんたが出てこい言ったんだろうが」
拗ねたようにプイと横を向き、耳の後ろをガリガリと掻く。
そうではあるが、大賀が電話を切ってから、まだ30分と経っていない。どうやらこの近辺に比留間の隠れ家があるのではないかと思われたが、相変わらず秘密主義な本人はその話をするつもりは無いらしく、大賀もあえて聞きだそうとはしなかった。

知佳子に投げつけられた写真は、隠しカメラによる撮影であるのか、奇妙な角度のものばかりであった。
写真には、スーツ姿の大柄な男と津田が写っていて、そのうちの数枚は背景の内装から、同じバーのカウンターのように見える。
知佳子本人がこれほど近くで撮影できるとも思われず、この一連の証拠写真は、興信所に依頼したものではないかと思われた。
この店が割り出せるか、という問いかけに比留間克哉は意外な反応をしめした。
「なんで」
手にした写真から顔も上げず、不機嫌そうに聞き返してくる。

大賀は目を見開いた。
いつも大賀の考えを先回りし、頼んでもいない情報さえ持ち帰る比留間に、いままで理由を求められたことは一度も無い。
気難しい相手の「地雷を踏んで」しまったようであったが、何が比留間の神経を逆なでしたものか、大賀には理由が分からない。

「……まさかあんた、この男に会うつもりじゃないだろうな」
「それは――」
比留間は苛立ったように写真を指で弾いた。
「こんなやつに会ってどうすんだ? 津田さんとはどういう関係でしたかとか聞くわけか? 男が好きとかいうのは本当ですか? どんな体位で何をしてましたか? べつに聞いたっていいだろうさ。向こうが答えるかどうかは知らねえけどな。だけど何のために? 何のためにあんたがそんなことしなきゃならない?」
「……克哉」
なだめるような大賀の呼びかけに、比留間は奇しくも知佳子と同じセリフで応じた。
「呼ぶなよ、俺はこの話には乗らない。やりたきゃあんたが勝手にやればいいさ。今のとこの家主のコネがあれば、どうせ何だって調べられるだろ」
乱暴にドアを開けて、比留間は車から降り立った。
「おい克哉! どうしたんだ」
運転席から身を乗り出した大賀に、「呼ぶなっつってんだろうが!」と比留間は怒鳴り返した。
「どうかしてんのはあんただろ! 知るか!」
一声そう叫ぶと、細い肩をいからせて、人混みのむこうへと消えて行く。
よほど激昂しているのか、すれちがう何人かとぶつかり、相手が脅えた顔をして振り返るのが見えた。

大賀は大きく溜息をついた。
全身の力を抜いて、シートの背にもたれかかり、目を閉じる。
どうかしている――比留間克哉の言うとおりであるのかもしれない。
大賀は、今になって津田のことを知りたいと思い始めているのだった。
しかも原因は何かと言えば、明快な損得勘定などではなく、夫のために自暴自棄になっている知佳子であり、父の死を悲しんでいる柳井晶子であったりするのだ。
そしてそのことに無自覚であるのを見抜かれて、比留間克哉を失望させたのだろう。

(家主……その手があったか)

間違いなく、どうかしているに違いない、と大賀は再び溜息をついた。
おそらくは単なる嫌味であったであろう比留間の言葉を、真剣に検討している自分がいるのだから。

まだ痛み続ける右肩を庇うように体を起こすと、大賀はB4のエンジンをかけて、市ヶ谷へ向かって走り出す。
大賀が潜伏している今の住まいは、「A&Cアソシエイツ」という会社名義の賃借物件だった。聞いただけでは何を商う存在であるのか全く不明なこの会社は、長原貞明という人物が税金対策に利用しているだけの、実体のないペーパー・カンパニーである。
本人は商談だと言ってシンガポールへ行ってしまったきり連絡がつかないが、あるいは長原であれば、興信所側から探り出そうとしなくとも、容易に津田の出入りしていた店を見つけ出すことができるかもしれなかった。


知佳子が置いて行った写真に写る津田は、大賀の知らない顔をした津田敬司朗だった。
隣にいる男も、知佳子が神経質に言い立てるほどには、大賀に似ているとも思えない。
大賀の知る津田は、縁側であくびをする猫のように、いつも安心しきった顔をして笑っていたのだ。
何故なのだろう、と今さらながらに大賀は思う。
生前の秋絵が悪党だとよく揶揄したように、比留間が今も策士であると思いたがるように、顔かたちや立ち居振る舞い、他人の家を転々としながら生きてきた経歴など、自分の中のどれひとつを取ってみても、他人に安心感を起こさせるような要素などは見当たらない。
津田はいったい、大賀という人間の何を気に入っていたのだろうか。

新たに生まれた疑問は、弧を描くようにして大賀の内の深いところへ沈んで行った。


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