水上奇譚
14話「断片」
クラクションを鳴らされながら、その車は大賀の後ろへと滑り込んできた。
煽るつもりでいるらしい。
バックミラーから視線を外し、大賀は目をほそめた。
動き出した前方の車の流れを見定めて、アクセルを踏み込む。
知佳子の挑発にのって、カー・チェイスの真似事をするつもりは無かった。
右肩が正常な状態であったとしても、ライセンス持ちの知佳子と張り合える腕前ではなく、ましてやこの車は借り物だ。
どうにか安全な車間距離をかせいだことを確認してから、離脱を告げるサインのつもりでウィンカーを出した大賀は、いきなりスピードを上げた背後の車にぎょっとした。
(ばかな)
磨耗したタイヤがスリップする、悲鳴のように高い音が空気を切り裂いた。
急ハンドルでぎりぎりのタイミングでかわし、路肩によせて停車した時には、掌に大量の汗をかいていた。
心臓が大きく脈うっている。
(何のつもりだ)
ひとつ間違えば玉突き事故にもなりかねない知佳子の行為に、さすがに頭に血が上った。
「……くそ」
怒りにまかせてドアを叩きつけるようにして、路上へと降り立った、その時だった。
――私のことなんて
青ざめた秋絵の顔が浮かび、大賀に呼びかける。
彼女らしくもなく取り乱した、胸をかきむしるような仕草で。
――私のことなんて、本当は何とも思っていないんでしょう?
大賀が足をとめたのは、風の中に嗅ぎとった、かすかな甘い匂いのせいだった。
排気ガスに混ざりこんでいても、不思議と存在感のある、甘い――沈丁花の甘い香り。
ふと我に返ると、興奮はすでにおさまっていた。
春先のあたたかい風が、どこからか花の香りを運んできたのだろうか。
忘れかけていた記憶が自分の怒りを引き止めたことを知り、大賀はふと空を見上げた。
何が見えるわけでもない、暗い夜空を。
……それでは、あれは春先のことであったのか。
猛然と追い抜いていったプジョー407もまた、大賀よりも数百メートル先に停まっていた。
滑るように優雅な身ごなしで運転席から姿を現した人物が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
実際のところは体の痛みがぶりかえして身動きできなかったのだが、ボンネットに手を置いて体重を預けた大賀の姿は、あるいは余裕があるように見えたのかもしれない。
「……元気そうね」
痛みをこらえるような表情で、津田知佳子が微笑んだ。
「尚人は大人になったら、うんと悪い男になるわね、きっと」
ベッドに横たわった秋絵はクスクスと楽しそうに笑って、こう付け加えた。
「だって、この私が先生なんだもの」
言葉のとおりに、まだ十代の少年であった大賀は、秋絵から多くのことを教わった。
夜遊びに習い事にボランティアに旅行にと、社交的な秋絵は付き合いも広く、遊び慣れた彼女のまわりには、いつも複数の男の影があったものだ。
大賀が身を寄せていた秋絵の実家である中野の家にも、入れかわり立ちかわり、恋人らしき男たちが現われては消えて行く。
それでいて親子ほど歳のはなれた夫との仲も良好で、互いの遊びを承知の上で、上手くやっている夫婦のように思われた。
秋絵が葉山の本宅に帰ることは滅多になかったが、社交上の付き合いに妻の同伴が必要な時には迎えがやってきて、秋絵もそれに対してはきちんと応じていたようだった。
そう、何の問題も無かったのだ。
秋絵にとって大賀は、気に入りの中の一人でしかなかったのだから。
「……あなたには、景子さんも私も同じなのよね」
青ざめた顔をして、秋絵がそう言い出すまでは。
「……痩せましたね」
数メートル手前で立ち止まった知佳子は、「そう?」と軽くなった髪をかきあげた。
大賀のよく知っているはずの、津田の隣で微笑んでいた、穏やかで優しい女性はそこにはいなかった。
長かった髪は顎の先あたりで切りそろえられ、細くなった顔の輪郭をいっそう際立たせてしまっている。
シルエットのゆったりとしたワイドパンツを身に着け、化粧まで変えた知佳子の隙のないスタイルは、大賀が仕事でよく顔を合わせる女社長の颯爽とした姿を思い出させたが、それでも今のやつれた様子を完全に隠せてはいなかった。
薄いクラッチバックを持つ左手の、細い手首にはめられた、金色のバングル。
身を飾るアクセサリーであるはずのそれが、ひどく重そうに見えるのだ。
大賀の脳裏をよぎったのは「痛々しい」という言葉だった。
(どうかしてる)
たとえどれほどやつれ果てて見えたとしても、それがいったい何だというのだろう。
この女は、大賀を陥れようと画策し、つい数分前には車ごと体当たりをしかけてきた張本人なのだ。
それなのに、今ここで顔を合わせても憐れみしか感じない自分は、いったいどうしてしまったのだろう。
目を覚ませと敢えて自分を叱咤して、傍目には分からないほどわずかに、車へと寄りかかっていた体重を移動させた。
弱っている人間は、弱っているからこそ、危険な場合もあるからだ。
「いつから後ろに?」
大賀の問いに、知佳子は片頬を歪ませた。
「べつに、たまたまよ。あなたを尾行していたわけじゃないわ」
「たまたま――ですか」
大賀のマンションから尾けていたのではないとしたら、つまりは柳井家から出てきたところを目撃して追ってきたということだろうか。
それでは知佳子は、やはり津田の血をひく柳井晶子のことを、ひいてはその母親の美保の存在を知っているのか。
知っていたとして、わざわざ屋敷の近くに潜んでいた理由は何だ。
口に出せない大賀のさまざまな思いを、表情からどのように読み取ったのか、知佳子が口を開いた。
「……あなたは、いつから知っていたの?」
うわずった声の、奇妙に明るい口調に、大賀は違和感を覚えた。
「何をですか?」
相手が省略した言葉をあえて正面から聞き返したのは、極端に言葉を刈り込んだ腹のさぐりあいのような会話の中に、罠の存在を感じとったからだった。
疑いを持っているだけで、知佳子が柳井晶子について確証のないままでいるのだとしたら、大賀の返答によっては、想像したくもないような修羅場を招いてしまうかもしれない。
「……でよ」
愁嘆場には慣れた大賀のことだ。
もしも聞こえていたら、あるいは知佳子を上手になだめることが出来たのかもしれず、その後の知佳子の運命も変わっていたかもしれなかった。
しかし横を走り抜けていった車のせいで、タイミング悪く、大賀はその呟きを聞き逃した。
「え?」
思わず聞き返した瞬間には、切れかかっていた知佳子の忍耐力はすでに失われてしまっていた。
「とぼけないでよ! 知っていたくせに、全部なにもかも知っていたくせに!」
細い体のどこから出てくるのかと思うほどの叫びだった。
「あなたのせいよ! あなたがあの人をあんなふうにしたんじゃない」
知佳子の上げる金切り声に、何人かの通行人が立ち止まってこちらを眺めている。
「待ってくれ、チカさん、何か誤解を――」
呼び慣れた愛称に、知佳子が反応した。
「呼ばないでよ、けがらわしい。人殺し。人殺し! あの人に子供がいることを知っていたんでしょう? あなたがあの家を買い取らせたんでしょう? 全部あなたが仕組んだことなんでしょう? そうやって生きてきたくせに!」
誤解だと喉元まで出かかった言葉は「そうやって生きてきたくせに」という言葉に封じられた。
知佳子は、大賀がかつて何をしたのか、知っているのだ。
「……何もしていない。津田さんには、本当に何も」
事実そのとおりであったのだが、大賀の呟きは、自分自身にさえ弁解がましく感じられた。
「嘘よ、あなたがあの人を利用したのよ! そのくせいつもみたいに捨てようとしたんでしょう。だから、あの人はおかしくなっていって……」
「捨てるだなんて、俺と津田さんはそんなんじゃない」
まるで大賀が津田を弄んでいたかのような言いようだ。
まさかの誤解であったが、あまりにも真剣で鬼気迫る知佳子の様子に、大賀は笑うこともできずに真顔で否定した。
「だったらどうして、あなたの結婚話を聞いておかしくなるの? どうしてこんな写真が大切にとってあるのよ?」
知佳子が手にしたクラッチバッグから取り出したのは、週刊誌にも使われた、例の逗子マリーナでの写真だった。
「書斎のデスクの引き出しの、本に挟んであったわ。本棚にも置かずに、わざわざ本をそんなところに入れて、写真を挟んだりする意味はなに? 私に見られないように? 馬鹿にしないでよ、私が何も気がつかないと思ってるの?」
顔に投げつけられたものがあった。
大賀の足元に、大量の写真が散らばった。
「よく見なさいよ、あの人の愛人は、いつもあなたそっくりだから!」
捨て台詞を残して背中を向けた知佳子を、大賀は追わなかった。
知佳子の車が走り去るのを見送ってから、ようやく一歩踏み出した。
かがみこんで、一枚一枚、丁寧に写真を拾い上げる。
写真は全部で36枚あった。大賀はその一枚を眺めながら、ゆっくりとした動作で携帯電話を取り出すと、比留間克哉の番号を探し出した。
「俺だ」
「俺だじゃねえよバカ、あんたどこで何やってんだよ。だいたい勝手にケー番変えんじゃねえっての分かんねえだろうが!」
すぐに電話に出た比留間が何事かを怒鳴りつづけていたが、大賀の耳には届かなかった。
「……克哉」
電話の向こうで何故か息をのむ気配がして、大賀は自分が何年も口にしていない呼びかけをしたことに気がついた。
秋絵のことを思い出していたせいで、昔に返ってしまったのかもしれない。
子供のころの比留間克哉を、大賀はそう呼んでいたのだが、ここ数年は名前を呼ぶこともない関わりだった。
「出てこられるか?」
写真に目を落としたまま、大賀はそう言った。
知佳子の言ったことの大部分は誤解と思い込みでしかないが、知佳子にそう思わせた何か、大賀が見逃していた津田という男の真実の断片が、ここにあるような気がしたのだった。
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