水上奇譚

13話「蜘蛛の糸」


(柳井晶子、柳井……)

はるか昔、まだ実物の津田敬司朗を知る前のこと。
津田を取材したビジネス本を読んだことがある。

取材対象は津田の他にも数人おり、「親の商売の跡をついだ若き経営者」ばかりを取り上げるという、目のつけどころとしては面白い企画だった。
しかし実際の内容はと言えば、旧態依然とした従来のやり方に疑問を持ち、新しいビジネスを立ち上げたというエピソードが並ぶばかりの、とりたてて読む価値もない代物であり、津田について書かれた章に出てきた、ひとつの名前だけが、わずかに大賀の興味を惹いた。
「水明館」という地元の老舗旅館。
こことの提携が、津田のビジネスの第一歩であったという挿話に興味を覚えたのは、大賀自身がこの旅館を訪れた記憶があったからだった。
秋絵とふたり、それもオーナーの招待によって。


「たまには遠出してみない?」
秋絵はそう言って、大賀を連れ出した。
ふたりの関係がまだ穏かなものであったころ。片庭家を出た大賀が、中野にある秋絵の持ち家へ移り住んだばかりの、初夏だった。
知り合いがやっている小さな旅館なの、としか秋絵は言わなかった。
しかし、地方の素封家には、驚くほどの富豪がいるものだ。
水明館という施設自体は、明治時代の屋敷を改築したという鄙びた趣の温泉宿にしか見えないのだが、経営者一家は県内でも代々有数の豪農であり、あらゆる事業を営む実業家でもあった。古くから土地に貢献してきた名士らしく、町へ行けば曽祖父がつくりあげたという、一族の名を冠した美術館と博物館があり、病院があり、記念公園がある。
翌日に招待された屋敷はといえば、富豪の家に使用人の子として育った大賀の目から見ても贅を尽くした建物で、敷地などは下手なテーマパークより広いようにさえ思われた。

「あら珍しい。美保さんがいらっしゃるの?」
通された居間で茶を供されているときだった。
そっと耳打ちした顔なじみらしい使用人の言葉に、秋絵が嬉しそうに目を輝かせた。
「もちろん、お会いしたいわ」
そして、大賀はその人物と顔を合わせることになったのだ。
「美保さん! わあ、久しぶり」
少女のように飛びついた秋絵に微笑んでみせた、背の高い、怜悧な印象を与える女。
地味ながらも物の良さそうな小紋を身に着けた彼女は、当時まだ40代だったはずだ。
しかし大賀自身が若かったからであるのか、それとも彼女の口元に刻まれた気難しい皺のためなのか、ひどく枯れた印象を受けたものだ。
「……こちらが?」
と言って、薄い刃物を思わせる視線を大賀に投げかけた、その女。
それが柳井美保だった。


(変わらないな……)
ようやく、この屋敷がかつての片庭家であるという実感が湧いてきた。
まるで様変わりしている屋敷部分とは異なり、庭を歩けば見知った風景がそこにある。
鼻腔をくすぐる、懐かしい木と土の香り。
そこまで考えて、大賀は苦笑した。
懐かしいとは、いったいどのような思い出を指しての言いぐさだろう。
(気のせいだ)
木から揮発する、フィトンチッドが副交感神経に作用しているだけのことで、この快さは錯覚にすぎない。
しかし、自分がこの場所を懐かしいと感じることができるのであれば、錯覚も悪くはないのではないか。
そう考えながら敷石を踏み、池のほとりを一周して母屋へ続く小道へ戻ってくると、柳井晶子が木にもたれて待っていた。
庭を見せてくれと要求したのは大賀だったが、何故か晶子自身は庭へ足を踏み入れたがらず、ここで待っていると言い張ったのだった。
「おかえり。どうだった?」
足元の小石を乱暴に一蹴りしてから、少女は体を起こした。
先ほどとは違う思いで、大賀はその姿を見つめた。
(この子が――)
「なに?」
大賀の視線に気づいて、柳井晶子は顔をしかめる。
大賀は「いや」と知らぬ素振りで、背後の庭を振り返ってみせた。
「ここは本当に変わってないな。庭木の位置もそのまま。老木が若い木に変わっているくらいかな……同じ場所にわざわざ植え替えたのか?」
「そんなこまかいとこまで知らないよ」
大賀の問いに、柳井晶子は片方の眉を上げた。
「でも、たぶんそうじゃないかな。母さん、いつも庭のことには神経質だったし……」
ここにいない人物を語るような口調に、大賀はふと思うところがあった。
比留間の報告では、母子二人暮らしという家族構成しか聞いていない。通いの家政婦が週に四回くる程度で、この広い屋敷はほぼ無人に近く、警備会社のセキュリティ・システムだけに守られた暮らしであるとしか。
「……言っとくけど、今は入院中だから、母さんには会えないよ。初対面のひとに気安く会ってくれるような人でもないし」
頑固だから、と言い添えて、少女は大人びた溜息をついた。
初対面ではないのだが、と大賀は胸中で呟いたが、10年以上も前に一度会っただけの人間を記憶しているかどうかは定かではなく、正面きって主張できるような出会いでも無いことから、胸の内にとどめておくことにした。
「だから、話したくても、詳しいことは知らないから話せない。だいたい、私は頼まれただけなんだから」
少女の言葉に、大賀は視線を上げた。
「頼まれた――?」
「頼まれたんだ、あの人に。あんたが来るまで、この家をこのままにしておくようにって」
「津田さんが? どうして?」
この家と津田の繋がりさえ知らなかった大賀が、どうしてここに現われることなどあるだろう。
困惑する大賀に、柳井晶子は「さあね」と吐き捨てるように言って、背を向けた。
「知らないよ。あんたが来て全部が終わるまで、ここを守るのが私の役目だったんだ。だけど、もう一ヶ月を切ってしまった」
小さな背中は、弱い月の光に照らされて、ぼんやりと光っている。
二度と来るはずのないこの場所で、津田の残した娘と歩いているという現実に、大賀は夢の中にいるような頼りなさを覚えた。
しかも、この小さな少女はといえば、知らない異国の鳥が鳴くように、不可解な言葉を発してばかりいるのだ。
大賀は眉を寄せて、考えこんだ。
比留間の報告を聞いた時点では、柳井晶子の母である柳井美保という名に、あの美保を思い出すことはなかった。
この屋敷で娘と静かに暮らす母というイメージに、あのやり手の経営者である美保が重ならなかったということもある。

秋絵の友人に、柳井美保という富豪の娘がいたということ。
美保が片庭家の屋敷を買い取ったこと。
美保と津田が愛人関係にあり、子供までいたということ。
津田の甥と大賀が同窓であったこと。

ひとつひとつを取ってみれば、ありそうな出来事であり、おかしなことは何もない。
しかしこの絡み合う細い糸は、偶然と片付けてしまうには、少し不可解ではないだろうか。

――いったいこれは、誰が用意した、どういう種類の罠なのだろう。

「もう一回言ってくれ、津田さんが何て言ったって?」
食い下がる大賀に、柳井晶子は振り返った。
「知らないよ」
「知らないって、そんな馬鹿な……」
「だから、知らないってば!」
その目じりに涙がにじんでいるのを見て、大賀は言葉をのみこんだ。
「ここは三週間後には取り壊されることになってる。家も庭も全部。もう母さんが決めちゃったから。あんたに聞きたいのは私のほうだよ。どうすればいい? どうしたらよかった? あの人が望んでたのは、何だった……?」
声をあげて、柳井晶子が泣き出した。


(あの人が望んでいたこと、か)
どこかで工事でもしているのだろうか。深夜にもかかわらず、車の流れは悪かった。
大賀を乗せた紺色のB4は、新宿を通り過ぎ、靖国通りへと入って行く。
数時間前に通った道を戻る大賀は、いまだ痛む右肩を庇うように、左手だけでステアリングを握っていた。自由のきかない体に渋滞はかえって都合がよかったが、ふと気がつくと考え事に没頭してしまい、何度か慌ててブレーキを踏む破目に陥った。

「敬ちゃんが何とかしてくれたんだけど……」

かつて利章は、無邪気にも言ったものだ。
しかし年端もいかない高校生の身で、津田にいったい何が出来たというのだろう。
ほそぼそと惣菜屋を営んでいた、津田の実家。
津田敬司朗の華々しい成功の出発点として、必ず持ち出されるエピソードではあるが、その小さな会社が億単位の負債を抱えて倒産寸前であったことまでは、決して語られることはない。
文字どおり何も持たない身の上であった自分とは比べるべくもないが、多額の借金を前にしての無力さは、大賀であれ津田であれ、他のどの少年であれ、変わらないはずだった。
利章の昔話を聞くたびに、大賀は津田について書かれた本の、水明館のくだりを思い出した。
あの柳井家ほどの一族であれば、億単位の援助は可能であるかもしれない、と。
そして思ったものだった。
当時の津田敬司朗には、後援者がいたのではないだろうか。
いたとしても、不思議ではないと思っていた。
個人的なスポンサー、言い方を変えるのなら、パトロンとでも言うべき存在が。

(なんだ?)
サイドミラーに反射したハイビームの眩しさに、大賀は我に返った。
後方から、曲芸のように車線変更を繰り返し、強引に車間をつめてくる車がある。
(あれは……)
運転席にいる人物までは見通すことができなかったが、その車には見覚えがあった。
フロントに特徴のある、プジョー407。夜間の照明ではボディーは白っぽい色にしか見えないが、おそらく色はアルミナム・グレーであるはずだ。
それは津田の妻である、知佳子の所有する車だった。

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