水上奇譚

12話「再会」


過去へ戻りたいと思ったことも、やり直したいと思ったこともない。
その自分が、再びここへやって来ることがあろうとは。

どういう因縁だろうと思いながら、大賀は柳井家の門の前に立っていた。
玄関の位置は元のままであったが、白木で仕上げられた数奇屋門は清々しく上品で、現在の所有者の趣味のよさを窺わせる。
以前のここは、訪れる者を威圧するような煉瓦造りの高い塀に、重厚な鉄の門扉があったものだ。
屋敷の印象がまったく変わってしまっているためか、大賀自身が過去にとらわれていないからであるのか、感じるであろうと思っていた不快感は、不思議なほど湧いてこなかった。
(ここに……二人きりなのか)
柳井晶子が、その母と二人暮らしであることは事前に知っていた。
都心を離れた、三鷹市の奥という閑静な土地柄。すっかり陽が落ちて暗くなり、今は木々のざわめきしか聞こえない。
裏手には女子大のキャンパスがあるだけで、夜ともなれば辺り一帯が静まりかえるこの場所は、二人きりで暮らすには、少し寂しすぎはしないだろうか。

「なんで、ここが――」
そう言ったきり、少女は言葉を失った。
インターホンを押して名を告げると、何秒もしないうちに乱暴に門が開けられて、息をきらせて戸口に現われたのは、あの夜の少女だった。
(ああ)
似ている、と大賀はあらためてその顔に見入ってしまう。
涼しげな目元も、細い鼻梁も、その口元も、本当に津田によく似ている。
死の瞬間に立ち会ったわけでもなければ、毎日顔を合わせていたわけでもない間柄だ。親子のようなというほど歳は離れておらず、上司と部下として出会ったわけでもなく、気安く友人と呼ぶには立場が違いすぎて、いつも名づけがたい、曖昧な関係だった。
だからだろうか、通夜にも告別式にも参列しておきながら、大賀は今この瞬間まで、津田の死を実感したことは無かった。
目の前の少女は、確かに津田とよく似ている。
似てはいるが、津田はこのように脅えたような表情で、大賀を見たことはない。
いつもいつも、過ぎるほどにリラックスした様子で、大賀を迎えいれた津田だった。
信頼しきった相手にだけ見せる気安い表情で「やあ」などと言ってドアを開け、無造作に首のあたりを掻いたりしたものだ。
あの場面に出会うことは、二度と無い。
自分が津田という男の目の前に立つことはないのだと、初めて思った。
「……もし」
ほんの数日前よりも明らかにやつれて見える相手に、大賀は視線をあてた。
復讐ではないかと、そう考えていた。
柳井家と自分にはこの屋敷以外には何のかかわりも見出せなかったものの、因縁あるこの場所へ大賀を呼び寄せようというからには、何らかの恨みによる、企みなのではないかと。

しかし、そうではないのだとしたら――

大賀はここまで自分を乗せてきたB4を、屋敷から離れた目立たない路地に、隠すように停めて来ていた。その紺色のセダンは大賀の所有物ではなく、借りている部屋の主がマンションの駐車場に置き去りにしていったものだ。
あえて自分の車を取りに戻らなかったのは、誰にも行き先を辿らせたくないがための、ささやかな用心だった。
いったい誰のための何の用心なのか、大賀自身にもはっきりとしてはいなかったのだが。
「もし、この前のことが」
大賀は何の感情もこめることなく、目の前の相手に視線をあてて、そっと切り出した。

「津田さんに関係のあることで……、何もかも話してくれるなら、協力してもいい」

素っ気なく聞こえるこの一言が、今はいない津田のために大賀が差し出すことのできる、最大限の好意だった。
受けとるのも受けとらないのも、この少女しだいなのだと思いながら。



「これは……見事だな」
世辞ではない感嘆が、大賀の口から洩れた。
玄関から中へと通された屋敷は、数奇屋風の典雅な建物だった。
よく見れば欄間にも細かな透き彫りがあり、ごてごてとした飾りを排したすっきりと美しい設えである。
なにより見事なのは、湖ほどもあるような広い池をそのまま生かし、水際に沿うようにして屋敷が建てられているところだ。
「ここ、開けてもいいか?」
返事を待たずに座敷の奥へ上がりこんで障子を開け放してみると、視界いっぱいに水面が広がった。
「へえ……、これ、庭からこっちを見たら、建物が水に浮かんでいるみたいに見えるんじゃないか?」
振り向いて同意を求める大賀に、戸口に寄りかかったままの柳井晶子は「見えるよ」と、ぶっきらぼうに応じてみせる。
小柄なために、あの夜は小学生かと思われた柳井晶子だが、比留間克哉の報告によれば、実際には13歳の中学一年生のはずだった。
しかし、小学生だと思っていた相手が中学生であったところで、年端もいかない子供であることに変わりはない。
不機嫌そうな表情で大賀から目をそらしつづけているが、さきほどから幼い子供のように右足で左の足を掻いてみたり、落ち着かなげに服のすそを引っ張ってみたりする仕草からして、内心ではこの成り行きにかなり戸惑っているらしかった。
「……あんたってさ、図太いよね」
身を乗りだして、池側に面した土縁の様子を覗いていた大賀は、かけられた言葉に振り返った。
「何が?」
柳井晶子は、口元を歪めてこう言った。
「何がって、そんなふうに背中を向けたらさ、危ないって思わない?」
似たようなことを、比留間にも言われたような気がする。
立て続けに夜道で暴漢に襲われることなどあり得そうになく、この少女が自宅で大賀の背中を刺すなどということは、もっと無さそうだ。
確率の低そうな未来をわざわざ思い描いて、自分に無用なプレッシャーをかけるような自虐趣味がないだけのことなのだが、他人はそれを強いと言ったり、鈍いと言ったりするらしい。
大賀は説明することなく、ただ薄く笑って再び背を向けた。
「べつに、刺したかったら刺せばいい――こことよく似た建物を、福井で見たことがあるような気がするんだが」
「よく知ってるね」
柳井晶子は、意外そうに目を見開いた。
「ここはあれを真似たんだって。回遊式の林泉庭園ていうらしいね。池の形を変えないのが条件だったから、そうなっちゃっただけのことらしいけど」
面白くもなさそうに説明する少女の言葉に、大賀は引っかかりを覚えた。
「条件? 売買にそんな条件がつけられるのか?」
いや、と柳井晶子は首を振った。
幼い容姿に似合わない、奇妙に大人びた仕草だった。
「元の持主がつけた条件じゃない。あの人が――」
言ったきり、しばらく自分の足元を睨みつけていた柳井晶子は、何事かを思い切ったように顔を上げた。
「津田敬司朗がつけた条件だ。この池の周囲には手をつけないのなら、建て直してもいいって。それが出来るのなら、ここへ通ってきてやってもいいし、子供を産んでもかまわないって――うちの母さんに言ったらしい」
大賀が言われた内容を理解するよりも先に、少女は歪んだ笑みを浮かべた。
「……ひどい男だね」

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