水上奇譚

11話「暗闇に咲く花」


「なあ、あんた夜中に一人で外でるの、こわくねえの?」

治りかけの体で外出しようとした大賀に、比留間克哉はあきれた顔をしたものだ。
玄関先で苦労しながら靴を履いていた大賀は、「どういう意味だ?」と振り返った。
「どうって、フツーはさ……、暴力を受けたりすると、なかなか立ち直れなかったりするもんだって言うぜ。あんたはトラウマとかPTSDとか、そういうの全然なさそうだよなあ……」
理解に苦しむとでも言いたげに、比留間は顎のあたりを指でかきながら、しきりに首をひねっている。
言葉の意味は分かる。しかし、言われていることの本質的な意味が、大賀には分からない。

(本当にあるのか?)

――いちいち他人に慰めてもらわなければ立ち直れない、なんてことが、本当に?

相手をあやつる手段としては、慰めることも、励ますことも、いくらでもやってきた。
しかし実際のところはと言うと、大賀は他人の弱さについて、理解するつもりもなければ、興味もない人間だ。
だからこそ、
「あいつ、ショック受けて、寝込んじゃってるんだ」
という、会社にまで押しかけて来た少年の告白に、開いた口がふさがらなかった。


「……あいつって?」
「だから、ショウコだよ。あんたあいつのこと、知ってるんだろ?」
頼りない表情で、大賀を見上げる。
大勢の来客が行き来するロビーでは、制服姿の少年は明らかにその場から浮いていて、すれちがう人間が必ず一度は視線を投げかけてくる。
大賀にとっては有難くない状況であったが、場を変えて話し合うつもりは一切なかった。
そもそも、この子供は、いったい自分が何をしたのか、分かっているのだろうか?

「どういうつもりか知らないが……」
わざとではない溜息をつきながら、大賀は少年を見下ろした。
あの夜はすでに二人組に暴行を受けたあとであり、大賀は立ち上がれない状態にあった。
こうして互いに向かい合ってみると、まだ中学生であろう、この少年は小柄で、体つきも華奢である。
自分としたことが、この子供のような相手に拉致されるところだったのかと、やや情けない思いが湧いた。
「俺はその子は知らない。だいたい、夜道でいきなり襲ってきたり、連れ去ろうとするような知り合いはいない。のこのこ俺の前に顔を出したりして、通報でもされたいのか?」
それは、二重の嘘であった。
大賀を夜道で襲いたい人間はいくらでもいるだろうし、目の前の少年が口にした「ショウコ」という人物が「 柳井晶子 やないしょうこ 」という少女であることを、今の大賀は知っている。
知っては、いる。
しかし、自分とのかかわりが、分からない。
この少年から引き出したいのは、その部分なのだ。
「それは、あの……」
大賀の低い声音に、少年は自分の立場を理解したらしく、顔色を変えた。
「だって、それは……オレもその、べつに殴ったりするつもりじゃなかったし、その、先にヘンなやつらもいたし、あんた大人しくしてくれないから……」
少年のしどろもどろな言訳にも、大賀は冷やかな表情を崩さなかった。
彼らに害意がなかったことは、大賀自身も承知していた。武器めいたものを携行していたのも、脅して車に乗せるくらいのつもりであったのかもしれず、ある意味では先に襲っていた二人組から大賀を救ってくれたと言えるかもしれない。
そういう意味においては、大賀の中に目の前の相手に対する怒りは存在しないのだが、ここで握った相手の弱みを手放すつもりは全くなかった。
「俺を連れて行こうとしたのは、あの女の子が言い出したことだったんだな?」
大賀の低い問いかけに、少年は「それは……」と口ごもった。
「それは、でも、ショウコだってあんたに怪我させるつもりなんて無かったはずだし、だから結局やめたんだし、ただあんたがウチに来てくれればいいって、それで……」
「分かった」
大賀はすげなく相手の言葉を遮った。
了解したという許しの意味ではなく、つまりこの少年がたいしたことは知らないらしいということが分かった、という意味だったのだが。
「あの子に言っておくんだな。今度は名のって用件を言ってから、人を招待するといい」
背を向けた大賀に、少年は必死で叫んだ。
「でもあんた、あいつの父さんの友達なんだろ?」


「なに、おとうと君が訪ねて来たんだって?」
机に置かれたのは、紙コップに入ったコーヒーだった。
首をまわして背後を見やると、あいかわらず調子のよさそうな矢野の中途半端な男前顔がそこにあり、「俺が淹れた。どうぞ」と芝居がかった仕草ですすめられた。
矢野が淹れたというコーヒーは、大賀が普段から口にしている職場のコーヒー・サービスのものとは香りからして格段に違っていた。雑味がなく味がやわらかいことから、水もわざわざ硬度の低い天然水をつかっているらしい。このタイプの男は人に奉仕させるのが上手であるのだが、自身もかなりマメな人間であるのかもしれない。
「いや、弟はいない。近所に住んでた子供」
大賀が平然と嘘を口にする。
中学生の弟などというでまかせよりも、世間に通りのよい嘘は、いくらでもあるものだ。
だというのに、あの子供がおかしな嘘で呼び出したおかげで、受付の派遣社員にちょっとした話題を提供してしまい、こうして二時間後には矢野の耳に届いていたりするわけなのだ。
「へえ、近所の子にまで慕われて、大賀さんはモテモテだねえ……」
矢野はニヤニヤと笑い続けている。
大賀は穏かな苦笑を浮かべた。
「おかげで困ってるよ。なんだ、そっちはもう帰れるのか?」
ブラインド越しの外の景色は、すっかり暗くなっていた。矢野と大賀とは、同じ業態開発部に籍を置いてはいるものの、ラインが違い、部屋も違う。大賀とデスクを並べているチームの人間たちは、一人が異動になったために、今日は送別会で早めに上がっていた。
病み上がりである大賀が残っているオフィスの人影はまばらで、パーティションの向こうで人の動く気配がする程度であり、珍しく静かであった。
自分の端末に向かい、格好だけは資料を作成しているような様子であったが、先ほどから大賀の指は無意味にマウスの上を叩いているだけで、何ひとつ進んでいない。
静寂の中で、先ほどから大賀の脳内で繰り返されているのは、投げかけられた不可解な言葉だった。

――あいつの父さんの友達なんだろ?

(柳井晶子……柳井、柳井、どこかで聞いたような)
どこかで聞いたような気がするのは、とりたてて珍しくもない姓であるからなのか。
自分と柳井晶子の共通点が、何かあるとでもいうのだろうか――大賀が掴んでいること以外の、何かが。

「ところでさ」
この耳ざとい同僚には、そろそろ聞かれるころだろうと思っていた。
だから、いつもの雑談の続きであるかのように矢野に切り出された時も、大賀はうろたえなかった。
「うちの前の会長と、大賀さんが、そのー、友達だって噂を聞いたんだけどさ……」
「友達って――」
その独特の含みを持たせた響きに苦笑しかけた瞬間、稲妻のようなひらめきが大賀を襲った。
(友達――そうか)
「えっ、なに?」
いきなり音をたてて立ち上がった大賀に、矢野はぎょっとして身をひいた。
「分かったよ。ありがとう」
礼とともに胸に押し付けられた紙コップに、矢野が「何が?」と言ったような気がしたが、しかし大賀は気に留めることなく、帰り支度もそこそこにオフィスを飛び出した。


(なんで気がつかなかったんだ)
あの薄茶の瞳と、あの微笑みと。
その可能性をまったく考えていなかったために、気がつかなかった。
自分は見たことがあるはずだ。
(何て、似てるんだ)
穏かそうでいて、どこか得体の知れない陰を宿した、その眼差し。
あの夜、大賀の目の前に立った少女は、津田敬司朗そのひとに――なんと似ていたことだろう。

Copyright 2007 mana All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-