水上奇譚

8話「解放」

 恵まれた人間というのは、大抵が鈍感だ。
「持つ者」が「持たざる者」の立場に立たされる機会は、滅多なことでは巡ってこない。故にそのありがたみに気づくことなく、あらゆる恩恵を空気のように浪費して生きているものなのだが。
容姿の良い人間に生まれついてのメリットは、実際には無数にある。
中でも大賀が気に入っているのは、初対面の人間から好意を引き出すのに、何の努力もいらないことだ。

直営フランチャイズのレストランの店長時代には、これは非常に役に立った。
しつこいクレームをつけてくる面倒な客が、大賀の「申し訳ありません」の一言で、不思議なほどあっさりと引き下がるのだ。
それが単純に「顔立ち」だけの問題ではないことも理解しているが、大きな要素であることは間違いない。
付き合いが継続した場合に、その好意が持続するかどうかは別の問題として、自分から何ひとつ働きかける必要もなく、最初から相手を「無償の協力者」にしてしまえるのだから、これほど便利なことはない――

ただし、この朝だけは例外だった。
「……くそ」
洗面台の鏡に映る男の顔面は、左側は異様に腫れ上がって目は半分塞がれ、右側も変色していて、暗い道端でうっかり人に出くわしたら、悲鳴をあげて逃げ出されそうな様子であった。
しばらく眺めていたが、変化があるわけもない。
洗面台から体を引き剥がし、足を引きずるようにして寝室へ戻る。
わずか数メートルの距離が、遠く遠く感じられる。
ベッドに倒れこみ、肺にたまった空気を吐き出すと、胸と背中の両方から、鈍い痛みがじわりと大賀に襲いかかってくる。
(骨が――)
間違いなく、肋骨あたりの骨が折れていると思われたが、起き上がるのにも覚悟のいる今の有様では、とても病院まで辿りつける気がしない。
血のはりついたシャツは上手く脱げなかったために、ハサミをつかって破り捨てた。今の大賀が身に着けているのは、やけにごわついた肌ざわりのバスローブだ。知人であるこの部屋の持主が置いていったもので、正体不明な消毒薬めいた臭いがするのだが、今の大賀には、それを不快に思う元気も、他の着替えを探す気力も湧いてこない。

上司が出社してくる時間帯まで待ち、会社へと電話をかけた。
一時間後にあらためて電話をかけ、同僚に引継ぎを頼み、アシスタントに指示を与えた。上司に説明したほどの細かい事実は告げなかったが、「3日は出社できそうにない」と言って電話を切る。
大賀の頭にようやく香織の顔が浮かんだのは、そこまでやり遂げてからのことだった。

いきなりベッド脇の電話機が鳴りはじめ、大賀は飛び上がるほど驚いた。
「……もしもし」
「もしもし言ってる場合かよ。あんた昨夜どこにいたんだ? いつからそこに帰ってた?」

それは香織ではなく、比留間克哉だった。
大賀は安堵の息をついて、再びベッドに横たわった。
「さあ、二時だったか三時だったか……」
空いたほうの左手で、額に落ちた髪を掻き揚げる。
身についた癖のような仕草ひとつが、いちいち思いがけない痛みを引き起こして、大賀は顔をしかめた。
「ウソつけ。何度も電話したけど、出なかっただろ。携帯は繋がらないし」
比留間の声はいつも以上に刺々しく、不機嫌そうだった。
連絡を寄こせと言ったのは大賀のほうで、比留間は所在のつかめない大賀に苛立っていたのだろう。
会社の人間を相手に、事実を隠した説明ばかりを繰り返していた大賀の脳は疲れきっていた。比留間相手に嘘をつくつもりはなかったものの、自分でも把握しきれていない昨夜の出来事を話すのが面倒になり、
「動けなかったからな……」
と投げやりに呟いた。
バン! と爆発のような音がしたのは、その時だ。
ぎょっとした大賀が体を起こすより先に、荒い足音が部屋へと押し入って来た。
「おい、動けないってどういうことだ?」
土足で踏み込んで来たのは、携帯電話を片手にした、比留間克哉だった。


深夜だった。
さんざん痛めつけられた大賀は、見知らぬ少年たちに神田の外れの通りで拉致され、車に乗せられたのだ。
抵抗を続けていた大賀にとっては長い時間に感じられたが、実際にどれくらい時間が経ったのか、どこを走ったのか、確認している余裕はなかった。
路地に入ったところで、いきなり車から放り出された。
顔を上げると、見覚えのある古びたマンションの建つ、市ヶ谷の街角だった。
今回の騒動から避難するために大賀が選んだ隠れ家であり、職場へも歩いて行けるほどに近い場所だ。
「なあ、ホントにこいつ置いてっていいのかよ?」
ワンボックス車のドアから身を乗り出し、大賀の着地を確認した少年が、振り返って声を張り上げた。
車の中にいるはずの少女から、返事はない。
舌打ちすると、少年は顔を引っ込めた。
白いワンボックスは走り去り、誰もいない路地に取り残され、大賀はようやく安心して――気を失った。


「……なんだそれ。わけわかんねえな」
一部始終を聞き終えた比留間の感想が、それだった。
「目的ってもんがあるはずだろ、普通……おい、ここんち米とかは? ねえの?」
いつの間にか移動して台所の戸棚を開け閉めしていた比留間が、不機嫌そうな顔で戻って来る。
「俺ちょっと出てくるから……なんだよ、なに笑ってんだよ」
そう言われて、よくこの腫れ上がった顔の表情の変化が読み取れるものだなと大賀は感心した。
「べつに。いつもと違うなと思ってさ」
「ああ、これ」
比留間は腰に手を当てて、自分の服装を見下ろした。
大賀の知る、鋲つきレザーにシルバーアクセという、いつもの攻撃的なファッションではなく、ジーンズにカーキ色のジャケットという、ごく当たり前の学生のような格好だ。あきれるくらい穴を開けすぎな耳のピアスも、小さいものが一つ光っている程度だった。
「TPOってもんがあるんだよ、身なりには。昼からあんなカッコでウロウロしてたら、目立ってしょうがない」
神経質そうに首を振ると、「で?」と比留間はベッドに横たわる大賀を見下ろした。
「あんたなりには、何か分かっているんだろ? そいつらが何なのか」
大賀は薄く笑った。
買いかぶりだと、いつも思う。
悪態ばかりついている比留間克哉は、ふとした時にこういう言葉を口にする。
比留間にとっての大賀とは、常に抜け目のない悪党で、油断のならない切れ者であるらしいのだ。
その幻想を与えたのは大賀自身であり、当時の大賀にはこの子供を利用する必要があったからなのだが、この無心の信頼のようなものを見るたびに、ほろ苦い気分にさせられる。
「まあ、何なのかというか……どこへ連れて行こうとしていたかは、分かる」
期待に応えてみるかと、大賀は目を閉じて、こう言った。
「三鷹にある、片庭家の屋敷を調べてくれ。今の所有者が、俺を連れ戻したがっているらしい」
昨夜、少年たちに押し込まれた車の中で、大賀はずっと抵抗を続けていた。
縛りつけようとする相手には噛みつき、殴られても諦めずに暴れ続けた。脅しのために突きつけられた刃物も構わずに叩き落し、そのせいで余計な傷を増やしても、それでも諦めなかった。
大賀のその様子に、持て余したのか気分を変えたのか、あの少女が「もういい」と言い出したのだ。
そして大賀は解放された。

現在の自宅以外に、大賀が長く住んだ場所は多くない。
あの少女が言っていた、「大賀のよく知る場所」というものがあるとしたら、二つだけだ。
ひとつは、秋絵の家。
もうひとつは、片庭家の屋敷。
中野にあった秋絵の家は、すでに跡形もない。
あの家は、不幸な事件の後ではなかなか買い手がつかず、家を増築したがっていた隣人に安く買い取られてしまったのだから。
可能性があるとしたら、片庭家のほうだろう。
「おい――眠ったのか?」
比留間の問いかけに、眠っていないと答えようとしたが、大賀の口は動かなかった。
時計は午前10時をまわっていた。
大賀にとっての長い夜が終わり、およそ30時間ぶりに、眠りについたのだった。
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