水上奇譚

9話「インテルメッツォ(幕間)」


 「過去に戻れるとしたら、いつがいい?」

手にした週刊誌から顔も上げずに、津田が言う。
「なんだそれ。心理テスト?」
チェスの駒をもてあそびながら、大賀は聞き返した。
津田が手ほどきをしろと言うので、大賀は先ほどから駒の並べ方から説明を始めているのだが、肝心の津田は生返事を繰り返すばかりで、とてもやる気があるようには見えない。
代官山の津田夫婦のマンション。ゆったりとしたソファーの置かれた、居心地のよい居間でのことだ。
「心理テスト……まあ、お遊びみたいなものだけど。これはアレだね、いつまで遡れば人生は変えられたと思いますか、って聞くほうが正しいね」
何がおかしいのか、津田はくすりと笑って、ページをめくった。
「尚人なら、いつに戻りたい?」
「俺?」
当時の大賀は、入社して間もない多忙な時期だった。寝不足な頭では気の利いた返事を思いつくことも出来ずに、思ったままにこう言ったのだ。
「……俺はいい」
「いいって?」
津田の問いかけに、大賀は眠い眼をこすった。
「戻っても、仕方がないし」
「へえ……、今と違う人生には興味ないって?」
顔を上げると、津田の面白がっているような視線とぶつかった。
津田は時おり、その実際的な仕事ぶりにはそぐわない、まるで禅問答のような非現実的な問いかけをする。会話の相手の本質を読み取ろうとする、この男なりのやり方なのだろうかと思いながら、大賀は「いや」と首を横に振る。
「そうじゃなくて……べつに何も変えないだろうから、俺はいい」
奇妙に長い沈黙が落ちた。
そうか、と津田は微笑み、ふたたび雑誌へと視線を戻す。
知佳子がそこへコーヒーをのせたトレイを持って現われ、
「あら、全然すすんでないじゃない。もう、尚人くんを付き合わせておいて、駄目でしょう?」
姉のような口調で津田をたしなめた。

あの日に戻れたら――片庭家の屋敷が放火された、あの日に、もしも戻ることが出来るのなら――

大賀は考えようとしてみたが、その試みは上手くいかなかった。
片庭景子の悲鳴と、一人娘である玲子が母を罵る声。
あの日に起きた一連の出来事は、隅から隅まで、正確に再生することが出来る。
母と娘のそれぞれに取り入り、争わせたのは、他ならぬ大賀自身なのだ。
燃えやすい紙類の多い、先代の書斎を、逢引の場所にするように仕向けたことも。その景子と大賀の密会の現場に、逆上した玲子が踏み込んで来たことも。

火の手はゆっくりと上がり、片庭家は静かに燃え始めた。
争っていた景子たちが逃げ遅れたのはともかく、大賀と数人の通いの使用人たちは逃げ出せたのであり、火災は屋敷が全焼する前に消火活動によって鎮火したのだ。
だから、大賀の父は運が悪かったのだと誰もが言った。
旧館の大賀父子に与えられた一室で、大賀の父がたまたま熱を出して伏せっていて、そのために一酸化炭素中毒で命を落としたのは、運が悪かったのだと。
大賀は知っていた。
父が体調が悪いことを知っていて、優しげな顔をして、抗ヒスタミン剤が含まれた風邪薬を飲ませておいたのだから。

(必要ない)

だから、あの日に戻る必要などはないのだった。大賀は、たとえ何万回あの場面に立たされようとも、同じ道を選ぶ自分を知っている。
あと数年の我慢をして生活力をつけてから屋敷を出て行くことも、我慢できずに身一つで逃げ出すこともしなかった。
妻と娘に高額の生命保険が掛けられていたという理由から疑惑を持たれたのは、何の罪もない、外出していて現場にも居合わせなかった片庭景子の夫だった。当然ながら証拠不充分で罪を問われることはなかったものの、保険金殺人だと世間に囁かれ、屋敷を売却して出て行くことになった人の好い景子の夫は、父を失い住む家を失った大賀に対しても、十分な見舞金を与えてくれた。
こうして大賀は悠然と片庭家の門を出て行った。
まだ16歳の少年であった大賀は、自ら選びとった方法で、しがらみとともに実の父を切り捨てたのだ。

――過去に戻れるとしたら

大賀にとっては意味のない問いだったが、あのタイミングで知佳子が現われなければ、あるいは大賀は津田に聞いてみたかもしれなかった。

そういう津田自身は、いったい、いつの自分に戻りたいのかと。

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