水上奇譚

7話「この身ひとつの」

「……ことわる」
大賀の拒否は、冷静に損得勘定をしてのことではなかった。
これがもし他の要求であったのなら、大賀はこの場を切り抜けるために相手の提案を受け入れて、脱出の機会をうかがうなり、後から相手を言いくるめるなりしたかもしれない。

「なんだって?」
大賀の胸倉をつかんでいた少女の眉が、ピクリと吊り上がった。
背後の乱闘はいつの間にか収束しており、そのやりとりを耳にした少年たちが「なんだよ」「どうした?」と口々に言いながら近寄ろうとしたのだが、ある地点でピタリと足を止めた。
薬品によって揺らいでいる大賀の視界にはうつらなかったが、少女が「来るな」という仕草をしてみせたらしい。
ということは、集団の主導権を握っているのは、この少女なのだ。
霞のかかったような意識の片隅で考えながら、
(だとしても)
大賀は閉じていこうとする瞼を、意志の力で押し開けた。
(決めるのは、この俺だ)
「……勘違いしてるみたいだけど、あんたに選ぶ権利はないんだよ」
低い声だった。大賀は優しく言い聞かせるような少女のその口調に、憎しみが滲んでいるのを感じとった。
「ここは人が通らないから、このまま置いていったら、あんたは死ぬかもしれない。あの二人に、この続きをやらせたっていい」
無意識のうちに、大賀は笑っていた。痛めつけられた体のどこに、まだ笑うほどの力が残っていたのかと、自分でも不思議な気がした。
分かってない、自分に雇われろなどと平然と口にする、この子供は分かっていないのだ。
誰に使われても構わない。
いくら頭を下げても構わない。
ただし、すべて自分で決めてやってきたことだ。
他人の言い値で自分を売るなど、誰がするものか。
ことわる、と大賀は呂律のまわらない舌で、再び拒否を口にした。
(気に入らなければ、殺せばいい)
憎いのなら、殴ればいいのだ。

憎まれることなど、痛くも痒くもない。
憐れまれることに比べたら。


片庭家での日々が、大賀の成長に影響を与えなかったといえば、嘘になるだろう。
悪いことばかりではない。
片庭景子は神経質な主人で、使用人の言葉遣いひとつ、動作ひとつにも厳しかった。そのために大賀は幼いころから人前で礼儀正しく振舞うように躾けられており、敬語と丁寧語と謙譲語を自然に使い分けることのできる若者など珍しいのか、後年その点について他人から感心されることが多く、その度に大賀は複雑な気持を味わうこととなった。
使用人としての礼儀正しさと、そして卑屈さと。
父がこの家の厄介者であり、自分はその厄介者の更なるオマケであるのだという事実は、幼い大賀の自我にヤスリをかけるような痛みを与えつづけた。
家の中で片庭景子の顔色をうかがい、片庭家の子供や出入りの多い親族たちにまで気を遣う日常。
唯一の肉親で保護者であるはずの父は、むしろ大賀が庇わなければならぬほど頼りない存在で。
知らぬ間に――
本当に、いつからか知らぬ間に、大賀はひたすら目立たぬよう、息を殺すようにして、うつむきがちな毎日を送るようになっていた。
他人から対等に扱われることのない日常がどういうものであるか、人からどれほど自尊心を奪うものか、体験した者にしか分からない。
学校の同級生たちとも、注意深く距離を置いて付き合った。
地元のごく普通の公立校であり、裕福な家庭の子供ばかりではなかったのだが、それでも彼らの話す家庭内のこと、母親や兄弟に対する他愛ない不満でさえ、大賀にとってはまったく未知の世界だった。噛みあわない会話の末に同級生におかしな興味を持たれ、質問攻めにされたあとで、その内容を言いふらされてからは、大賀はいっそう無口になった。
大人になってからの大賀を知るものは、その少年期を想像も出来ないだろう。
内気で目立たない少年であった大賀が変わり始めたのは、中学に入ってからのことだった。
正確には、あの日からだ。

「良いお話だと思うのよ」
片庭景子は珍しく上機嫌だった。
父とともに母屋の応接間に呼びつけられ、生まれてから一度も腰を下ろしたことのないソファーに浅く腰掛けて、大賀はその話を聞いていた。
「あそこのご主人が、あなたにその気があるのなら是非にと言ってくれて――」
相変わらず添え物のような個性の無い夫と並んだ彼女が持ちかけてきたのは、大賀の父を職に就かせる、という提案であった。
片庭家とも古くから付き合いのある造園業者が、大賀の父の忠人を職人見習いとして引き受けるというのである。
「あなたの息子も中学生でしょう。そろそろ独立して一家を構えてもいいころじゃないかしら」
この時、片庭景子は間違いなく大賀の父を厄介払いしようとして、知り合いの業者と話をつけたはずであった。数年後には大賀を手放したがらなくなるこの女主人は、「あなたの息子」というところで、まるで紙くずを見るような目つきで使用人の息子を一瞥した。
しかし、片庭景子の動機はともかくとして、これは大賀にとって願ってもない申し出だった。
(出て行ける――)
ここから、出て行けるのか。
生まれたときからここにいて、この屋敷での暮らしを続けて来た大賀にとっては、晴天の霹靂だった。ここを出て普通の暮らしが出来るのかと思うだけで、胸が躍った。
ところが次の瞬間、信じられないことが起きた。
片庭景子が驚いた以上に、大賀はその光景に呆然となった。
大賀忠人が、大賀の父が、泣きながら女主人の足にすがりついたのだ。
お願いしますここへ置いてくださいお願いします何でもしますからどうかここにずっと置いてくださいどうか――
おいおいと泣きながら足にすがられて、さすがの片庭景子も決まりの悪い表情になった。
「何も追い出そうというわけではないのよ。私はあなたに良かれと思って……」
「そうだよ、父さん」
とりあえず父をなだめようと立ち上がりかけたところ、振り返った父に「子供はだまってろ!」と怒鳴りつけられた。いつも温厚な父の見たこともないような凄まじい剣幕に、大賀は呆気にとられて立ち尽くした。
(なに――)
何なのだ、これは。いったい、どういう一幕なのか。
この父は、自分を怒鳴りつけ、ご主人様の足元にはいつくばってまで、ここに置いてもらいたいと言っているのか。
悪い夢の中にいるように、足元が頼りなく感じられる。
ここに来てようやく、夢から醒めるように大賀は現実を理解した。
この父は、自ら望んでこの屋敷に飼われている。
息子の苦しみも関係ない、主人の意志すら関係ない。ただひたすら、外へ出て行くことが――ここを出て自分の力で生きていくことが――恐いがために、必死にこの家にしがみついているだけなのだ。
片庭景子でも誰のせいでもなく、この父こそが、大賀にこの暮らしを強いている張本人なのだとしたら――
片庭景子と父のやりとりはまだ続いていたが、出来の悪いメロドラマのような愁嘆場にいたたまれなくなり、大賀は部屋を脱け出した。
呼び止められることはなかった。その場の誰一人として、大賀がいなくなったことに気がつきもしなかった。
(誰も俺なんか気にしない)
涙が、次から次へと頬を滑り落ちた。
父が憎いのか情けないのか悲しいのか、自分でも説明が出来なかった。
今まで身を寄せ合って生きていると思っていた父が、違う生き物になってしまったように感じられた。
この不器用な人を助けなければ、我儘を言って困らせてはいけないのだと言い聞かせて頑張ってきたのは、自分の思い込みだったのか。
流れ落ちる涙をぬぐいもせずに、大賀は池の周囲をあてもなく歩いていた。
夜の庭を歩き回るなど馬鹿みたいだと思ったが、自分たちに与えられた部屋へ帰れば、戻ってきた父と顔を合わせてしまう。父が嬉しそうに「あの話はなかったことになったよ」などと言ったら、自分はどういう顔をすればいいのだろう――
視界に、チラリと白いものがうつり、大賀はハッとして立ち止まった。
(誰だ)
松の木の向こう、池のほとりに、佇む人がいる。
片庭景子は家に人を招くことが好きで、稀に物好きな客が旧館に泊まりたがることもあり、この広大な庭を散策する人間がいるのは珍しいことではなかった。それでも宵の口の早い時間とはいえ、わざわざ夜の庭へ出てくる客人などはいない。
誰にも出くわすはずがないと思っていた大賀は、引き返そうとして慌てて足を動かし、敷き詰められた玉石でジャリッと大きな音を立ててしまった。
「こんばんは」
案の定、その人物は振り返り、大賀を見つけてしまった。
声をかけてきたのは、まだ若い、30歳前後の男であった。ほっそりとした体つきだが、腕には軽々と幼い子供を抱えている。ボタンを開けて白いブロードのシャツを羽織り、足元はサンダル履きという、まるで自宅の庭で鯉に餌でもやるような格好をしていたが、身なりのよい客を見慣れた大賀には、そのシャツの仕立ての良さと手首に光る時計の価値が、一目で分かった。
「あ、こ……こんばんは」
大賀は焦って、涙に濡れた自分の顔をこすった。
足元の庭園灯は弱く光っているだけだが、今夜は満月が明るく、泣き顔に気づかれてしまったかもしれなかった。
「きみは、ここの子?」
奇妙な質問だったが、大賀はその意図を理解した。片庭景子の子供は一人娘の玲子だけで、男の子はいないはずなのだ。
だとしたら何者なのだろうと、この客人は不思議に思ったのだろう。
「いいえ」
大賀は慌てて首を横に振り、会話を始めてしまったことを後悔していた。
片庭景子は、使用人が自分の客と気安く口をきくことを好まない。いつもの大賀であれば、会釈をして通り過ぎるだけのはずだったのだ。
「うちのとう……父が、ここでお世話になっているので……」
言いながら、大賀はいつの間にかうつむいてしまっていた。すぐにでも立ち去りたい気持でいっぱいだったのだが、曖昧な返事の語尾にかぶせるように、男が「いくつ?」と尋ねてきて、大賀は目を見張った。
「13です」
「そう」
男が微笑んで頷いたとき、腕の中の子供が「おりるー」と言って暴れだした。
「だめだよ、もう」
たしなめるように言いながらも、男は優しい仕草で子供をそっと地面へおろした。
その様子を眺めていて、大賀は奇妙な既視感を覚えていた。
若さに似合わぬ落ち着いた雰囲気に、やわらかな物腰。
(どこかで)
どこかで、この男に会ったことがなかっただろうか。
「おー」
幼い声に呼ばれ、大賀はハッとして目線を下げた。
男の連れている二歳くらいの幼児が、よちよち歩きで近寄って来て、大賀の膝につかまったのだ。
大賀は下を向いて子供の頭を撫でてやりながら、この場を立ち去るタイミングをはかっていた。
来客と立ち話をしているところを見られたりしたら、片庭景子にどれほど叱られることか――
(ちがう)
それは違う、と大賀は唇を噛みしめた。
片庭景子に怒られるだとか、そんなものはただの言い訳だ。自分がここを立ち去りたくてたまらないのは、今もまともに顔を上げることが出来ずに擦り切れたスニーカーの爪先を見つめているのは、片庭景子のせいでもなければ、足にしがみついて笑いかけてくる、この子供のせいでもない。
自分は、気後れしているのだ。
身なりのよい、いかにも裕福そうな客の前に立ち、何かヘマをしやしないか馬鹿にされやしないかと、ビクビクしているだけなのだ。
「ほら、ダメだよ。こっちにおいで」
男が腕を広げて呼ぶと、子供は大賀の足から離れ、笑い声をあげてそこへ飛び込んで行った。
子供を抱き上げると、「きれいだねえ」と男は言った。
感心したような声の調子に誘われて大賀がようやく顔を上げると、満月に照らされた空が、深い青に輝いていた。
雲が白くたなびき、その隙間から、宝石のような星がきらきらと瞬いている。
晴れわたる夜空は、こんなにも明るいものなのかと、大賀は一瞬すべてを忘れて、その色合いに見とれていた。

「……尊敬できる親だとか、優しい兄弟だとか」
何かの続きであるかのように、男は言った。
「そんなものを持っている人間は、本当はあまりいないんだよ」

大賀は弾かれたように男を振り返った。
男は子供をかかえて夜空を見上げ、夢見るような表情で、こう言った。
「配られたカードで勝負しなければならないのは、みんな一緒だ。頭の良い人間は策をめぐらせ、資産家の家に生まれた人間は金を使い、美しく生まれた人間は他人の好意を利用する。何も無いのなら、首をさらして憐れみを乞えばいい、それもひとつの生き方だ」
驚いて見つめる大賀の視線を、男はとらえた。
「きみが今しているのは、まさにそれだな」
先ほどまでの柔らかい雰囲気は消え失せ、冴えざえとした冷たい瞳が、大賀を見下ろしていた。
大賀はその場に立ち竦んだ。「ここで世話になっている」と言っただけで、自分のことを何ひとつ話して聞かせたわけではない。
それなのに、男は何のつもりか、立ちすくむ大賀へ向かって容赦なく畳み掛けた。
「そうやって下を向いて、自分には何の価値もありませんと言ってしまうのは、ラクでいい。他人は勝手にきみに値段をつけてくれるだろうな、それはそれは安い値段をね」
「何を……」
大賀の足が震えた。見ず知らずの人間に、何故いきなり非難されなくてはならないのか。
「何を言われているか分からない? 本当に?」
黙り込んだ大賀をしばらく見つめて、男は低い声で言い放った。
「自分の価値は自分で決めろ。そして他人に高く売りつけるんだ。絶対に自分から頭を垂れては駄目だ」
「どうして――」
どうして自分にそんなことを言うのかと、大賀は言いかけたが、男はすでに踵を返して歩き出していた。
片庭家が母屋として使っている洋館とは、反対の方向へ。
(こんな時間に、どこへ行くんだ?)
男の肩ごしに、子供が顔を出し、大賀へ向かって無邪気にバイバイと手を振っていた。
大賀は呆けた顔でのろのろと右手を持ち上げたが、手を振り返すほどの力は湧いてこなかった。


翌朝になって、昨夜の客人は誰だったのかと父に尋ねたが、来客などはいなかったという不思議な答えが返って来た。
片庭景子が個人的な客を泊めたという可能性もあるが、しかしあの男は子連れであり、女主人の愛人という線は考えにくい。
それからしばらくは、いつかまた会えたら、あの男に何を言おうかと考えたりもした。
しかし二度と出会うことはなく、男の顔も声も、しだいに記憶の向こうへ遠くなっていった。
ただ、去って行く男が決して大賀を振り返ろうとしなかったことは、よく覚えている。
男に言われたことも、一言も漏らさずに覚えている。
大賀はあの時、確かに男に腹を立てた。何かに怒りをおぼえたこと自体が、久しぶりであった。
男の言葉は、大賀の胸の底にわずかに残った意地のようなもの――ささやかな自尊心に、火をつけたのだった。



自分にあるのものは何だろう、と大賀は考える。
庇ってくれるような親類縁者はいない。財産はもちろん無い。生まれ育ちに他人に誇れるようなものは、何もない。
この身ひとつ。
他人の家で育ったために、場の雰囲気を読むことに長けた、年齢に不似合いな気配りと、そして観察力。
それから、異性に好まれるらしい外見と。
自分自身だけが、大賀のただひとつの持ち物なのだ。
「あら」
いつものように庭の掃除をしていると、木立の向こうから 樋口秋絵 ひぐちあきえ が現れた。
先代の姪、つまり片庭景子の従妹である秋絵は、景子と仲が良く、何かと言えば遊びに来ている妹のような存在だ。年齢は三十代半ばだが、朗らかで、よく笑う姿は少女のように見える。
今日の秋絵は淡く濃淡のついた藤色の付け下げに、髪をゆるくまとめていて、少女めいた彼女の雰囲気とよく似合っていた。
しかし、お茶の先生を招いて小さな会を催すのだと片庭景子が言っていた時間は、まだ二時間も先のはずだ。
「暇だったから、早く来てしまったの」
まるで大賀の内心の声が聞こえたかのように説明して、ふふ、と秋絵は笑った。
「ここのお庭、今の季節はたくさんお花が咲いて綺麗でしょう。よかったら案内してくれる?」
秋絵の申し出に、大賀は虚をつかれた。
片庭景子は、使用人が自分の客と親しく口をきくことを好まない。
(でも)
あの不思議な客のことを思い出す。
あの夜の自分は、初対面の人間がなじりたくなるほど卑屈で、惨めであったのか。
「僕でよければ……、ご案内します」
控えめに、しかし秋絵の視線から逃げることなく、大賀は微笑んでみせた。
秋絵は意外そうに目を見開き、そして嬉しそうに笑った。

――自分の価値は、自分で決めるのだ。
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