水上奇譚

6話「ディアコノス」

大賀尚人は、使用人の子として生まれた。
それ自体には、別段これといって問題があるわけではない、と大賀は思う。
誰であれ、誰かや何かに使われて生きているものだ。そうでない人間など、この世に一握りしか存在しない。
問題は、大賀の父親である忠人と、忠人が仕えていた片庭家との、時代遅れの特殊な関係にあった。

仕えている――報酬によって雇用されているのではなく、忠人はまさに「仕えて」いた。
この関係の始まりが、一体どこにあったのか。
大賀が物心つく前から聞かされていた「先代には引き上げの時に世話になった」という忠人の言葉を頼りに調べたところによると、終戦直前の満州国――関東軍によって支配されていた中華人民共和国の東北部の都市、大連でのことが原因であるらしい。
元は共同経営者であったという、大賀の祖父と片庭の先代との間に、何があったのか。
父も正確なところは知らなかったのではないかと、大賀は思う。
知らなかった、もっと正確に言うのなら――知ろうとしたことすら無かったのではないか。

「大賀! ちょっと、ねえ、どこにいるの、大賀!」
神経質な女主人の呼び声が、幼い大賀尚人の耳に突き刺さる。
あれは、奥様が父を呼ぶ声だ。
大賀は手にしていた箒を、そっと縁側へ立てかけた。
幼い子供を働かせているのは外聞が悪いのだろう。人目につかない裏庭と室内の掃除が、大賀の主な仕事だった。
戦後に興した製紙業によって成功をおさめていた片庭家の敷地は広大で、書院造りの屋敷に洋館を繋げた不思議なつくりの住居と、美しく整えられた庭には船さえ浮かべられそうなほどの大きな池をそなえている。
大賀は急いで庭を横切った。
片庭家の人間は新しく建てられた洋館で生活をしており、大賀父子には先代が好んで使っていたという旧館の、小さな一室が与えられている。
あまり体の丈夫でない父は、今日も風邪をひいて寝込んでいた。
とうさん、と声をかけて布団で丸くなっていた父を揺さぶった。
とうさん、奥様がよんでいるよ。出かけたいみたいだよ、と呼びかける。
「無理だ。熱があるんだよ。これじゃ運転は無理だよ」
父は大賀に背を向けたまま、弱々しい声をあげる。それきり、子供のように布団をかぶってしまい、大賀は途方にくれた。
「申し訳ありません。父は体調が悪くて、車の運転が出来ません」
洋館へ戻った大賀は淡々と事情を説明した。必要以上におどおどしたりすれば、余計にこの女主人を苛立たせることになると知っていたからだ。
「まあ、またなの?」
片庭 かたにわ 景子は、まなじりを吊り上げた。外出用の着物を身につけているところを見ると、芝居か買い物にでも行くつもりなのだろう。
化粧をほどこした顔は美しく、頬は怒りのために紅潮している。
「いったい、何のための住み込みなのかしら。何もしたくないのなら、出て行ってくれて構わないのよ」
「おいおい、子供相手にそんなことを言っても仕方ないだろう。運転なら俺がしていくから――」
片庭景子の夫、入り婿である「旦那様」がなだめるように肩に手をかけると、彼女はそれを振り払った。
「そういう問題じゃありません! だいたい、あの男は昔からそうなのよ」
声高に文句を言いながら、片庭景子は夫を連れて玄関を出て行った。
大賀はその場に立ちつくした。
父を悪く言われて、口惜しかった。
その頃はまだ、父は不器用な人だから自分が助けてやらなくてはと――そう思っていたのだった。


(痛い)
何度目かの殴打に、大賀は呻き声を上げた。
胸に腹に腰に、鉄の棒が、執拗に叩きつけられる。
助けを呼ぼうにも、会社のビルばかりが立ち並ぶビジネス街の夜は静かで、まるで 人気 ひとけ がない。
胸ポケットに入れていた携帯電話は奪い去られ、すでに粉々に打ち砕かれてしまっている。
(死ぬのか)
痛みの中で大賀が気を失いかけた、その時だった。
けたたましいクラクションを響かせて、路地から車が飛び出して来た。
車は猛スピードで大賀に鉄パイプを振り上げていた男に突っ込み、はね飛ばした。わずか数センチの差で自分も轢かれかけた大賀が横たわったまま唖然としていると、白いワンボックス車のドアが開き、奇声をあげた数名が飛び出して来た。
(なに――どうしたんだ?)
あとから現れた集団は、二人の襲撃者を木刀のような武器で攻撃している。
暗くてよく見えないものの、声と細い体つきからして、大賀を襲っていた男たちよりもずっと若い、少年たちのようだった。
いきなり喧騒の中心に置かれ、大賀は混乱していた。どうにか上半身は起こしたものの、左腕と右肩が痺れていて、まるで感覚がない。頭を殴られたせいなのか、眩暈がして、手をついた地面が波立つ水面のように感じられる。
その時、乱闘のあいだを巧みにすりぬけて、大賀へ近づいてきた影があった。
小柄でほっそりとした、まだ小学生のような子供だ。
両手は無造作に上着のポケットに入れたまま。キャップを目深にかぶっていて、顔立ちまでは分からない。
目の前に立った少年に「誰だ」と問いかけようとして出来ないことに気づき、大賀は咳き込みながら、口の中に詰められた布を吐き出した。
幸か不幸か、この詰め物のおかげで歯を失わずに済んだようだが、口の中に残る薬品の匂いに、吐き気を感じた。
「助けてやろうか」
大賀は、その声に視線を上げた。
感じた違和感のこたえを探すように、足元から視線を上げていくと、その少年の華奢な顎に行き当たった。
口元が、微笑んでいる。
背後の乱闘など、自分とは関係ないとでもいうように、微笑んでいる。
「……な」
何のつもりだ、と最後まで言えなかったのは、小さな手にいきなり胸倉をつかまれたためだった。
「助けてやろうかって言ったんだよ、大賀尚人」
意外なほど強い力に引きずり上げられ、息がかかるほどの距離で、名を呼ばれた。
細められた薄茶の瞳に、自分の顔がうつりこんでいる。その時になってようやく、大賀は相手が少年ではなく、少女であることに気がついた。長い髪を押し込めたせいで、キャップが奇妙な形に歪んでいることにも。
感じた違和感はそれだったのか。
(ちがう)
違うような気がした。
この目と、この声と、この微笑みと。自分はこの場面をよく知っている――ような気がした。
左頬に押し当てられた冷たい感触のものを確かめようと、大賀が眼球だけを動かしてそちらを見やると、それは細身のナイフだった。
この少女は、大賀に刃物をつきつけておきながら、助けてやろうかと言っているのだ。
「俺を……知ってるのか」
大賀がようやく押し出した言葉は、溜息よりも細かった。
殴られた頭のせいなのか、それとも薬品のせいであるのか、視界がグラグラと揺れ始めている。意識を失いかけている、という自覚があった。
その少女は大賀の言葉には答えずに
「タダとは言わないよ」
微笑みながら、歌うように、こう言った。
「そのかわり、あんたには私に雇われてもらう。あんたもよく知っている、あの場所で。そうだね、たぶん……三週間くらい」


小遣い程度の金しか与えず、奉仕させている――
子供のころの大賀は、そう思っていた。
片庭家の人間に罵られ、こき使われている父を見ては胸を痛め、要領の悪い父を助けようと幼いながらに仕事を手伝った。
思えばそれは、ある意味では幸せな時期だったのかもしれない。大賀が成長するにつれて、片庭家での生活はしだいに窮屈になっていった。
待遇が悪化したというのでも、暴力的な扱いを受けていたわけでもない。
大賀が世間を知るようになったからだ。
学校に通うようになり、片庭家の屋敷の外へ出て、同じ年頃の子供たちと自分の置かれた境遇がいかに違うかを知ることで、大賀が父を見る視線は少しずつ変わっていった。
「お父さまは、昔からあの男に甘かったのよ」
いまいましげに片庭景子が吐き捨てるのを、よく耳にしたものだ。
先代の長女として育てられた片庭景子は気分屋で、すぐに怒鳴り散らすようなところはあったが、それも彼女のせいとばかりも言えないと、大賀は思うようになっていた。
原因は、大賀の父にあるのだ。
父親の代から、いつの間にか家にいた使用人。それでいて病気がちで、たいして役に立つわけでもない。片庭景子にしてみれば、大賀の父の存在は、まったくのお荷物でしかなかったはずだ。
先代の生きた時代であれば、富豪の家に役に立たない下男のひとりくらいいたところで、たいした問題ではなかったのかもしれない。
しかし本当にそれだけであったのかと、大賀は疑問に思う。
半端な仕事しか与えずに、一人の気弱な男を屋敷に置きつづけた、先代の主人である片庭嘉一は、果たして本当に「甘かった」のだろうか。

「ねえ、これ誰なのか分かる?」
大賀が片庭家を出て秋絵のところに身を寄せていたころ、古いアルバムを見せられたことがある。
大賀は18歳になったばかり、父も片庭景子もいなくなり、あの屋敷も使用人の子供としての暮らしも、過去のことになりつつあった。
広げられたアルバムの色褪せた写真には、五人の和装の男女が行儀よく並んで写っている。
「これがうちの父と母ね、こちらがあなたのお祖父さま、ね、あなたに似ているでしょ?」
秋絵が指差した男は、大賀が初めて目にする人物だった。
目鼻立ちのはっきりとした顔に、自信にあふれた口元の微笑み。
「似てるかな……」
「あら、似ているわよ。ほら役者さんみたいな二枚目でしょう。それで、その隣が片庭のおじさま、おじさまの隣にいる女の人が許嫁だった由季乃さん。この人が、結局はあなたのお祖母さまになったひとなのよね」
「え……?」
「知らなかったでしょう? 景子さんもあなたのお父さまも知らないことだもの」
秋絵はいたずらっぽく微笑んだ。
片庭嘉一の姪である彼女は、大賀の知らない過去を知っていた。
だとしたら、と大賀は考える。
片庭嘉一が大賀の父にしたことは、施しなどではなく、純粋な復讐だったのかもしれない――

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