水上奇譚

5話「襲撃者」


「大賀の所属するチームはですね、既存店の改善を担当しておりまして、現在は関東圏の……」
大賀の上司である伊藤の説明は、どこかうわついて、空回り気味だった。
それは伊藤のせいではなく、「最近どうだね」のような曖昧な話題の振られ方をした仕事の話自体が、単なる社交的な前振りであると、その場にいる全員が承知していたせいだった。
そして先ほどから一言も言葉を発しない、常務の岡の異様な存在感のせいでもある。

岡耕造は年齢はそろそろ60代後半のはずなのだが、姿勢のよさと陽に焼けた顔つきの若々しさのせいで、大賀には老人のようには見えなかった。
直接の面識はなかったが、利章と津田の会話にしばしば登場する岡という男は「口うるさい親戚のおじさん」のような近しい存在であり、岡本人にマネージメントの才がないわけではないだろうが、どちらかといえば身内として、津田の忠実な使用人として信頼され、貢献してきた人物なのだろうと、大賀はそう認識していた。

大賀と伊藤の他には、部長の木下と常務の岡、そして岡の横には大賀の知らない若い男が控えている。
弁護士か、と大賀はさりげなくその男を観察してみたが、それにしては生真面目に身ぎれいに過ぎて、スーツも靴も趣味は悪くないものの、安物のようだ。
大賀の知らない秘書室の男だろうと判断して、意識から外した時だった。
「……で、担当者であるきみは、これをどう思うね?」
ふいに口を開いたのは岡で、視線は大賀を正面からとらえていた。
伊藤が息をのみ、座がしんと静まり返る。
「これと仰いますのが、『ラ・ヴェスタ』のリニューアルの件でしたら――」
手がけているカジュアル・イタリアンのチェーン店の名を挙げて、大賀はゆっくりと語り始めた。
「ロードサイドにある店舗を残し、都市部の好立地店を『ラ・ヴェスタ ドゥエ』として展開させるというのは、目新しさはありませんが、悪くないアイデアであると思います。メニューと内装を刷新した高級感のあるイタリアンとして、二店が先行オープンを開始した後に、こまかい修正点を加える必要はありますが……」

茶番だ、と大賀は思った。
この既存店の改善案は、すでに何度も検討され、経営会議を通過したものだ。
大賀が言ったように、月末には先行店がオープンする予定であり、その数字を検討して修正を加えたのちに、予定する全店を転換するスケジュールとなっている。
岡が居眠りしていたのでなければ、当然耳にしている内容であり、いまさら現場の担当者が意見を云々するような案件でもなければ、時期でもないはずだ。

「しかしそれは、改善と言えるのかね」
あからさまにイライラした口調で、岡が口を挟んできた。
「結局のところ、使い古された『ヴェスタ』の名を引きずって、しかも新装開店ほどの投資をするわけだろう?」
「はい」
大賀はひとつ頷いて、岡のけわしい表情に視線を当て、それから一呼吸置いて、他の参加者を見渡した。
「残置された店舗については、ファースト・フード形態のパスタ店への変更を予定しておりますので、実際には既存店の改善というよりは、業態転換に近いものです」
会社が大きくなればなるほど、社外向けのような説明を、社内の他部署にまで行わなければならない場面が出てくるものだ。
津田が可能なかぎり無駄を排してつくったこの組織においても、それは例外でなく、プレゼンテーションに慣れている大賀の口調はよどみがない。
一方で、頭の中ではまったく別のことについて考えていた。

つまりこれは、入社時の人事面接のようなものなのだ。
面接官が重視するのは、実際には話される内容ではない。
大切なのは話の内容ではなく、話しぶりだ。
表情であり、会話の組み立てであり、不測の事態への対処の姿勢であり、そこから導き出される面接者の人となりである。
大賀尚人という人間が、どういう人物であるのか――
岡が早朝からわざわざ足を運んで、自分の目で見たがったものは、それなのだろう。

「開店から10年、新メニューを投入しても来店客が前年比を割り続けている『ラ・ヴェスタ』は、すでにブランドとしての寿命を終えていると考えられます。しかし、その認知度は非常に高い」
最後のくだりを語る前に、大賀はまた一呼吸置いた。
意味のない間。しかし上手にあやつれば、たいした弁舌を用いなくとも、語りに説得力を加えることもできる。
「――この認知度と信頼感を最大限に利用すること、つまり『あのヴェスタが新しくなる』という話題性を取り、新規ブランド立ち上げにかかる宣伝費を、大幅に削減しております」
岡の目を真っ直ぐに見つめ、さあどうだ、と大賀は思った。
合格だろうか、不合格だろうか。
どうせ人となりを見られたところで、自分に良い材料があるわけではないことは分かっていた。
爽やかな好青年でもなければ、善良な男でもない。
ただし、有能な人間であり、会社の利益にそれなりの貢献を果たしてきた。
(俺にあるのは、それだけだ)
他業種にくらべて、たいして収入があるわけでもない。休暇もあるのかないのか分からないほど多忙を極めている。
それでも、どれほどこの仕事を大切に思っていることか。
会社組織という、有能でさえあれば一人前に扱ってもらえるこの居場所を、自分がどれほど愛していることか。
ここに居並ぶ誰一人として、おそらく、想像もできないに違いない。

大賀の表情に影が差したのは、これから始まる尋問めいたやりとりを思い描いてのことではなく、失うものを思ってのことだった。
津田のコネを利用したことはないが、大賀とて、業績だけで出世してきたわけではない。人事の大部分は人脈で決定されるものだ。上司の推薦がなければ、部下の出世などはありえないのだから。
当然ながら、大賀にもこれまで引き立ててくれた上司がいる。庇ってくれるはずの何人かに心当たりもあり、部長の木下もその一人のはずだった。
しかし、目の前にいる岡の意向に逆らえるほどの権力の持ち主には、心当たりがない。

「……ところで」
沈黙を破ったのは、岡だった。
意外にも、それまでの刺々しい雰囲気を消した穏やかな表情で一同を見渡して、こう言った。
「そろそろ、今回の件についての、対策を話し合いたいんだが」



「ああ、それってー、俺のおかげだと思う」
悪びれる様子もなく、利章が箸を振りまわした。
「やっぱり、おまえか……」
大賀は額を押さえて、呻くように言った。
神田の外れのこの飲み屋は、狭くて古いだけでなく、大賀の目から見るとコンセプトが滅茶苦茶であった。
カウンター席と、座敷に卓が二つ。
大賀と利章は最初は座敷に腰を下ろしたのだが、会社帰りのサラリーマンで混み始めた途端に、「すみませんねえ」とコック帽をかぶった「大将」と呼ばれる店主にカウンター席へと押し込められたのだった。
「それでここは、何屋なんだ?」
粗末な椅子の背に肘をかけて、大賀は店内を見まわした。
薄汚れたモルタルの壁に、ただの紙切れに手書き文字のメニューが貼ってあるが、字が汚くてさっぱり読み取れない。
「何屋とか、そーゆージャンル分けに何か意味あんの? ここ、マグロの中落ちとコロッケがうまいけど、どうする?」
きょとんとした表情で、利章が聞いてくる。
利章は今では不動産を扱う会社にいて、それなりの苦労はしているはずの年齢なのだが、この童顔と子供じみた仕草を見ていると、変化したのはスーツ姿の部分だけのように見える。
大賀は自分の手でビールをグラスへ注ぎながら、利章をにらみつけた。
「俺は変わった店に連れて行けとは言ったけどな、変な店に連れて行けとは言ってないぞ」
「またー、そういうわがまま言うなよー。あ、コロッケふたつと、なかおちね!」
カウンターの中へ声をかけると、利章は大賀へ向き直った。
「なんだよ、なんか怒ってんの? おじさんに尚人を苛めないでよって言ったの、そんなにマズかったか?」
「マズくないし、怒ってない」
大賀は溜息をついた。
「どっちかっていうと、感謝してる」
「そうか、よかった」
んじゃ乾杯、と利章が上げたビールのグラスに、しぶしぶと大賀もグラスを合わせる。
頭痛がするのは、自分の馬鹿さかげんに呆れてのことだ。
確かに、社内に岡に対抗できるような人間はいない。しかし、社外にはいるのだ。
利章の存在を、大賀は失念していた。

昼間の部長室でのやりとりは、大賀の予期しないものとなった。
岡は大賀を質問攻めにすることもなく、いきなり対外的なマスコミ対策について語り始めた。
驚いたことに、岡の隣にいる男は秘書ではなく、広報室の人間だった。
「そうですね、はい、では取材を匂わせるような電話が入ったときには、こちらの内線番号へ回してください。本日付で通知させていただきますが、木下部長からも、全員に周知徹底願います」
広報室の島内です、と名乗った男は、早口で説明を終えると、その場にいる全員に、A4用紙に出力した「一般報知・至急」とタイトルの書かれた書面を配った。
そこには、「いかなる場合においても、マスコミ取材に応じることを禁じる」という厳しい内容の文章が書かれている。
「了解しました」
頷いた部長の木下の表情からは何も読み取れないが、内心では大賀と同様に、成り行きに戸惑っているはずだった。
「……というわけで終わるが、何か質問は?」
岡はまるでその場の主人のように振る舞っている。本来、彼の職責とは無関係な問題であり、口を挟む権利は無いはずであったが――
「特にありません」
木下が頷き、解散となった。
退室する際に、大賀は岡へ何か問いかけるべきか、このまま去るべきか悩み、結局のところ振り返った。
今回の騒動は、大賀に非のあることではなく、会社員である大賀の立場にも、何のかかわりもないことだ。
しかし、そのような正論や建前が通用する世の中ではないことは、大賀も承知している。
たとえ解雇することは出来なくとも、異動を発して左遷することはできるのだ。現実に、もっと些細なことが原因で立場を追われた人間を、大賀はいくらでも知っている。
「何故ですか?」
「何故とは?」
話し合いが終わった岡は、ソファーにもたれて悠然と大賀を眺めている。
部長の木下が気を利かせたのか、気が付けば、この部屋にいるのは二人きりとなっていた。
「……ここで、私個人の責任を問われるものと思っていました」
それは本音であった。
大賀の言葉に、岡は意地の悪い笑みを浮かべた。
「へえ、責任をどうこう言うということは、つまり、何かうしろぐらい心当たりでもあると解釈してよいのかな」
「そういうつもりでは――」
「冗談だよ」
冗談らしくない無愛想さで、岡は手を振って見せた。
「良いやつで、真面目な努力家で、心根は優しい男だそうだ」
「は?」
「きみの友達が、きみをクビにしたりしたら、絶対に許さないんだそうだ。だから、まあ、こうして骨を折ってみたわけだ。歳をとると、人に嫌われるのはこたえるからな」


「おじさんてさー、敬ちゃんには厳しかったけど、俺の言うことはいっつも聞いてくれるんだよ。ほら、息子には厳しいけど、孫には甘いおじいちゃんているじゃないか。ああいう感じ」
あの常務が「おじいちゃん」という、大賀にはまるでピンとこない例えだったが、黙ってグラスの残りのビールを飲み干した。
利章の姓は、津田である。
わけあって離婚したという利章の母は津田の姉にあたり、実家へ戻った母子の生活を見ていたのは、跡継ぎとなった津田敬司朗だった。
「敬ちゃんはさ、うちが大変だったから、高校も中退しなくちゃならなかったし、あれで凄い苦労人だったんだよね」
視線を浮かせて、利章が語り始めた。
その話は、何度か利章から聞いていた。
津田の実家の惣菜屋が傾いていたころ、折り悪く、社長である津田の父が急死してしまった。それも、莫大な借金を残して。
「俺もチビだったけど、ちょっとは覚えててさ。借金取りは押しかけて来るし、会社はつぶれかかってるし、もう家中まっくらな雰囲気でさあ……で、敬ちゃんがどうにかしてくれたわけなんだけど、そういう話、敬ちゃんはしないんだよな」
「おい、まわってきたのか?」
意図をはかりかねて大賀が言うと、利章は小さく笑った。
「そうじゃないって。敬ちゃんとおまえが似てるなあって、そういう話」
「似てないだろ」
意外な言われように、大賀は驚いた。津田と自分が似ているだなんて、思ったこともない。
「どこも似てないけど、すごく似てるよ。おまえも敬ちゃんも、おんなじこと言うんだよな」
「同じこと?」
「そうそう。俺が会社の女の子と付き合ってたことあっただろ?」
「ああ」
思い出して、大賀は重々しく頷いた。
「付き合ってたな、ただし二人とな」
「そんなつもりじゃなかったんだよ! で、その時さんざんモメてさ、みんなにも迷惑かけたろ。あの時、おまえが言ったんだよ」
「何て?」
「『食事と便所を同じ場所でするなんて、おまえ馬鹿か』って」
「言ったか……?」
記憶にはなかったが、確かに自分の言いそうなことではあった。大賀自身は、職場の人間と付き合ったことはなく、また付き合おうとも思わない。遊びでなら、なおのことだ。
利章が笑いだした。
「言ったよ、俺びっくりしたもんな。食事はいいけど、便所ってなんだよーって」
「悪かったな。たぶん酔ってて、薄暗い本音が出たんだろ」
投げやりに口元を歪める大賀に、利章はビールの追加を注文したあとで「べつに責めてるんじゃないよ」と言った。
「でさ、それから敬ちゃんにも叱られたんだよ。叱るっていうか、『身辺がきれいでないと、いい仕事はできないものだ』って言われたんだけど」
「誰だって言うだろ、それくらい。一般論として」
大賀が取り合わないでいると、利章は不満そうな表情になった。
「一般的じゃないだろ。似てるよ。おまえも敬ちゃんも仕事人間で、ホントはすげえ努力家で、だけど誰にもそういう風には思われたくないんだ。で、恋愛なんかは汚いもんだと思ってる」
「それは――」
反射的に反論しかけて、言うべきことがないことに大賀は気づいた。
津田のことは知らないが、自分には確かに、そういう一面があるかもしれない。しかし、だからどうだと言うのだ。
「おまえ、常務に俺のこと『心根は優しい男だ』って言ったんじゃなかったのか?」
「こころね? 言ってないけど、ホントはすごく良いやつだって言っといた」
利章の返事に、大賀は納得した。
なるほど、利章の語彙に含まれていないはずの褒め言葉の羅列に半信半疑だったが、あれは岡の脚色、というより翻訳であったらしい。
「おまえはさー、イヤなヤツだけど、そういう風にイヤなヤツじゃないんだよ」
利章が微笑んだ。
なに言ってやがる、と大賀は思う。学部が同じでゼミが同じで、在学中にさんざん利用されてきたことなど、利章は気がつきもしなかった。そもそも、大賀が利章に近づいたのは、津田敬司朗の甥と知ってのことだったのだ。
「イヤな奴に種類なんかあるのか?」
半ば呆れて大賀が問いかけると、利章は真面目な顔で、こう言った。
「あるよ。俺は敬ちゃんもおまえも好きだし、尊敬してる。だから、チカさんが今回やったことは、絶対に許せない」


地下鉄の駅へ向かうという利章とは、店の前で別れた。
利章の「お礼におごれ」という主張によって勘定は大賀が持ったのだが、それは異常に安かった。
店主は「三千円です」と言うのだが、メニューの金額を見れば端数があるのだし、そのような金額になるわけがない。
「ああ、ここ、いつもそうなんだよ。すっげー安い時と、すんごい高い時があるんだ。たぶん一日の売り上げを決めててさ、客の頭数で適当に割り振ってんじゃないかな」
こともなげに言う利章に、大賀は驚いて口を開けた。
「そんな店があるのか……」
「あるよー。おまえんとこの会社、オシャレな店しか出してないもんな」
「そんなこともないけどな……」
カレーのチェーン店もあれば、価格帯の低い定食屋もある。しかし、このようにいいかげんな営業が許されるわけもない。
そういう商売が許される場合とは、やはり特殊な立地の、固定客ばかりの客層で――
(誰かついてくる)
大賀は足を止めて振り返った。
ビジネス街の静かな路地には、誰もいない。
(考えすぎかな)
利章と酒を飲んでいた二時間の間に雨が降ったらしく、路面は濡れて光っている。
春先らしい、寒いような暖かいような不安定な外気が、薄いコートを着た大賀のまわりを包んでいた。
大賀はしばらく耳を澄ませて自分を納得させてから、また歩き始めた。
ひとまずは利章に救われ、職を失くさずに済みそうな様子だが、だからこそ比留間から聞いた内容の記事が世に出ることは避けたかった。
その点について、岡は「努力している」と言い、「知佳子さんと会ってもらうことがあるかもしれない」とも言っていた。
岡としては、これ以上の面倒事は避け、話し合いによって和解に持ち込みたい意向なのだろうが、知佳子が果たしてそれに応じるだろうかと、大賀は疑問に思っていた。
大賀の知る知佳子は、津田のよきパートナーで、常識的な人間だった。
子供のいない夫婦であるせいなのか、津田と知佳子には夫と妻というよりも、もっと親密な友達同士のような雰囲気さえあった。
その知佳子が常識をこえた行動をとっているからには、話し合い程度のことで、気持を変えさせることは出来ないのでは――

ふいに右肩に衝撃を受けて、痛いと思う暇もなく大賀は地面に膝をついていた。
「……な」
何をする、と言いかけて、振り上げられた棒状のものが目に入った。
鉄パイプ。
顔を狙って振り下ろされた凶器を避ける余裕はなく、左腕で受けとめる。
襲撃者は二人だった。いつの間にか後ろに回っていたもう一人の男に蹴られ、大賀は今度こそ地面に転がり、頭を殴られた。
苦しくて開けた口に、布のようなものが突っ込まれる。
何か、薬品の匂いがした。

胸ポケットに入れていた携帯電話が震えだし、着信を告げていた。
(香織)
昨夜は連絡がつかなかった香織が、大賀のメールを見て、電話をかけてきたに違いない。
その夜、大賀が電話に出ることはなかった。
襲撃者は無言。大賀も悲鳴を上げることは出来ないまま。
静かに、暴行が始まった。

Copyright 2007 mana All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-