水上奇譚

4話「変容」

色悪 いろあく 」という存在がある。
歌舞伎において、七代目市川団十郎が得意とした役どころだ。
二枚目でありながら、その内面は冷酷非情な野心家であり、自らの容色を武器にして伸し上がろうとする、悪い男――
(ねえ、尚人みたいね)
秋絵 あきえ の無邪気な声がよみがえって、大賀に語りかけた。
芝居好きで闊達だった彼女が、笑いながら振り返る姿が浮かんで、消える。

大賀の部屋の電話は、まだ鳴り続けていた。

こめかみのあたりを指で揉むと、大賀はひとつ大きなため息をついてから、顔を上げた。
鳴り続ける電話を無視して、ソファーに投げ出したままの上着から携帯電話を取り出すと、目当ての番号を素早く見つけ出す。
知佳子の暴露話がまったくの虚言であり、大賀本人にはまるで身に覚えのない中傷であったとしても、こういった事態に直面した時に重要なのは、自らの潔白をまわりに訴えることではない。
もっと確実で、有効な手段がある。
――発言者の信用を失墜させること。
「もしもし、俺だけど」
「あー、あんたか、どうもどうも。元気?」
けたたましい騒音とともに、比留間の高い声が耳に飛び込んできて、大賀はわずかに携帯電話を耳から遠ざけた。
「……そこ、クラブか何かか?」
「ガキじゃあるまいし、クラブなんかで遊ぶかよ。サラリーマンてやつは世間知らずだね!」
バカにしきった声で吐き捨てる 比留間 ひるま 克哉 かつや は、まだ大学に在籍しているはずの、大賀から見れば立派な子供だ。
痩せた体にシルバーのアクセサリーをじゃらじゃらと身につけ、今風に髪を染めた、そのあたりにたむろしている若者のひとりにしか見えないのだが、しかし中身は普通の子供ではない。
不満を言いながらも居場所を明かそうとしないところをみると、病的な秘密主義も相変わらずらしいなと、扱いにくい相手との久しぶりの会話に大賀が躊躇していると、比留間は焦れたように「で?」と切り出した。
「なに、どうすんの? とりあえず一つ二つ、あの奥さんに小ネタ仕込んでみるんだろ?」
いきなりの提案に、大賀は驚いて眉を上げる。
「奥さんって……知ってたのか?」
比留間は不満そうに鼻を鳴らした。
「あんたねえ、週刊誌みたいなトロい媒体のニュースなんか、いまどきニュースって言わないよ。俺に電話してくんの、二日遅いんじゃないの。ほら、やるのかやらないのか、やるんなら何がいいのか、さっさと決めてくれよ」
決めろ、と比留間がいうのは、今回の騒動の原因である知佳子にどう対処するのかだった。
事前に矢野からの情報がなければ、大賀自身は他人から聞かされるまで気づかずにいたかもしれないこの話を、その口ぶりからして、比留間はかなり早いうちから知り得ていたらしい。
いったいどこから仕入れた情報なのか、次に出る記事の内容についてまで詳細に語り始め、大賀を驚かせた。

比留間とは、過去のひとつを共有している。
面と向かって問いただしたことはないが、連絡を取り合っていない間も、つねに大賀の身辺に目を光らせている様子であるのは、監視のつもりなのか、それとも歪んだ身内意識なのか。

週刊誌沙汰はさすがに初めてのことだが、似たようなことは今までにもあった。
記憶に新しいのは、二年ほど前。自分の恋人を奪われたと思い込んだ会社の同僚が、どのようにして知ったのか、大賀の過去をちらつかせて、脅迫してきたときのことだ。
脅迫とは言っても、その男の目的は金銭ではなく、大賀に対する復讐なのだ。
どうするのさ、と尋ねる比留間に「黙らせてくれれば、なんでもいい」とだけ指示した。
その翌日、男は会社に顔を出さなかった。
通勤電車の中で痴漢行為をはたらいて捕まったらしいと、噂話はすぐに大賀の耳にも入ってきた。
盗撮写真のデータがつまったデジタルカメラを所持していたくせに、自分の物ではないと言い張っているのだそうだ。
同僚たちのヒソヒソ話に、大賀は薄く笑った。それきり、その男は会社からも大賀の視界からも消えてしまった。
最小限の労力で、最大限の効果を。
それをセンスと呼ぶのなら、比留間にはそれがあった。
あのときのように、大賀が一言やれと言いさえすれば、すみやかに実行されるはずだ。
そして知佳子は。
知佳子は二度と大賀を悩ませることもなく――

「……必要ない」
口をついて出たのは、意外にもそんな言葉だった。
「はあ? なに?」
「必要ないって言ったんだ。気が変わった。ただ、どこにいるのかだけ調べておいてくれ」
「おいおい――」
「俺はしばらくこの部屋に戻らない。明日また連絡する」
待てよ、と比留間が声を張り上げるのが聞こえたが、そのまま一方的に通話を終わらせ、電源もオフにした。

部屋の電話は、まだ鳴り続けている。
大賀は部屋の隅のサイドボードに忘れられたように置かれている電話に歩み寄ると、静かに受話器を上げた。
「はい」
押し当てた耳に、かすかに息遣いのようなものが、聞こえたような気がした。
息をつめて受話器を握っている相手の姿が、見えるような気がした。
それは現実にはわずか数秒のことで、すぐに電話は切られ、大賀は静けさのなかに取り残された。
(おれは)
その姿勢のまま、大賀はしばらく動けずにいた。
自分から比留間に電話をかけておきながら、最後の瞬間に大賀はためらった。
したくない、と思ったのだ。
知佳子に、そんなことはしたくない。そんなことをするために、なりふりかまわず生きてきたわけではない。
同僚の矢野に偽悪的な自慢話を聞かされても、苦笑いしか浮かばないのは、そういうことだ。
自分は間違いなく悪党で、最悪の人でなしで、それを恥じたことさえない人間だ。
(だけど、俺は)
誰にも理解を求めるつもりはない。分かってもらう必要はない。
そう思っていたはずなのに、どうしてなのか、今この瞬間、受話器の向こうにいたかもしれない知佳子に、言いたかったことがある。

俺はただの一度だって、自分の楽しみのために他人をもてあそんだことはない、と。



翌朝の大賀は忙しかった。
予想していたようにすぐに部長に呼び出され、直接の上司である伊藤とともに、部長室の扉を叩いた。
その程度の事態は、大賀にとってすでに覚悟していたことだった。
そわそわと落ち着かない様子で何度も振り返る伊藤に、「大丈夫ですよ」と、その時はまだ、微笑んでみせる余裕さえあった。

失礼します、と足を踏み入れた部長室は、大型デスクの手前に簡易応接セットを置いただけの、手狭な部屋だ。
ブラインドの隙間から、朝の陽射しが差し込み、大賀は眩しさに一瞬目を細める。
逆光のせいで気づくのが遅れたが、いるはずのない人物がそこにいた。
部長である木下の向かいのソファーに、担当役員でもない常務の岡の姿をみとめて、大賀は初めて「やりにくいな」と思った。
(早いじゃないか)
いずれ早いうちに吊るし上げられる場面はあるだろうが、それは今この時ではないはずだった。
常務取締役、岡耕造。
大きな眼球を動かして、じろりと遠慮なく大賀を睨んでいる岡は、いかつい顔立ちの小柄な男だった。
元は津田の実家の惣菜屋の番頭のような存在であり、会社組織を大きくするにしたがって経営陣を入れ替えてきた津田が、最後まで会社に残してきた人物でもある――

浅く腰をかけ、身じろぎもしない岡の、射るように強い視線を感じながら、大賀の背後で扉が閉まった。
ガチャリというその音が、やけに大きく耳に響いた。
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