水上奇譚

3話「罪と罠」

「札幌の秘密クラブで謎の腹上死」
「カリスマ社長の隠された性癖」
紙面に踊る文字を思い出して、大賀は顔をしかめた。

スポーツ新聞に、女性誌が二誌、写真週刊誌が一誌。
自宅の近所にあるコンビニエンス・ストアを三軒まわって買い集めたそれらは、すでに読み終えて居間のガラステーブルの上に放り投げてある。
滅多に使われることのない、乾ききったシンクのあるキッチンでウィスキーをグラスに注ぎ、そのまま水のようにあおった。
アルコールが胃に染みわたり、昼間から大賀を苦しめていた頭痛が、嘘のように引いていく。
流しに体重を預けて寄りかかり、大賀は目を閉じた。

津田の死因は、急性の心筋梗塞であったと聞いている。
旅先のホテルでの急死。
救急車で病院へ運ばれたものの、手遅れであったという。

社内ではそれ以上の説明はなく、同僚たちと同じように、大賀も特に不審に思ってはいなかった。
健康そうに見えた人間が、若くして急死するというのは、世間ではよくあることだ。
まして多忙な実業家であれば、知らず知らずのうちに過労が体を蝕んでいることもあるだろう。
ところが、週刊誌の記事は津田の死を「旅先での行き過ぎた行為の結果である」と書き立てていた。
記事によれば、「津田敬司朗は同性愛者であり」「異常なほど暴力的な性行為を好み」「都内の会員制秘密クラブの会員でもある」のだそうだ。「この業界では有名な話ですよ」という、まるで芸能記事のような、実在するかどうかも疑わしい「事情に詳しい関係者からのコメント」に苦笑しかけた大賀だったが、記事の後半部分を読んでいくうちに、しだいに表情がこわばっていった。
記事の後半では、「裏切られた妻である知佳子夫人」が涙ながらに語ったというインタビューが掲載されている。

「夫はずっと私を騙していたんです。気に入りの若い社員を自宅へ連れ込んで、愛人関係をつづけていたなんて」

「おかしい、おかしいとは思っていたんです。でも、この目で現場を見るまでは信じられなくて……」

――愛人関係にあったという社員Aさん。
短い説明とともに、知佳子のやつれてうつむいた写真の横にある、小さな写真。
荒い印刷に背景などはつぶれてしまっているものの、この写真には見覚えがあった。


八年ほど前だっただろうか。大賀が、まだ学生であったころのことだ。
津田がクルーザーを購入したと聞いて、利章とともに大賀も何回か海へ連れて行ってもらった。
この写真は、逗子マリーナで撮られたものだ。
津田がたまたま知り合いになったという他のオーナーの船に招待されて、その賑やかなパーティーへ顔を出したことがあった。
陽気ではあるが、どう見ても堅気ではなさそうな新城という男が、その豪華クルーザーの持ち主だった。50歳くらいの、日に焼けた浅黒い肌をした体格のよい男で、大賀もそれまでに何度かマリーナ内の施設で見かけたことがあるが、いつも部下のような男たちを従えて、まるでモデルのような若い女たちを引き連れていた。
パーティーは盛況だった。
酒が入り、しだいに怪しげな雰囲気になってくる周囲の様子を察知して、大賀は津田の姿をさがした。
まわりの空気など知らぬげに、優雅にシャンパンのグラスを傾けていた津田を見つけ出すと、「出たほうがよさそうだ」と耳打ちした。
フラッシュが光ったのは、そのときのことだ。
仲間うちでふざけたポーズを撮り合っていた若い女が、気まぐれにレンズを大賀へ向けたのだった。
ひとの記憶は曖昧になっていくものだが、写真は残る――
ふと警戒心が起きたのは、すでに有名人であった津田のためというよりは、大賀の習性のようなものだった。
玩具のように小さなインスタントカメラを手にした女に歩み寄ると、その手から当然のようにフィルムシートを取り上げた。
文句を言いかけた相手に、「ありがとう」と微笑みかけて、口を封じる。大賀にとっては、簡単なことだった。
津田はその一幕を見ていたはずだったが、感想らしきことは何も口にしなかった。

「……そうだ、利章を拾ってこないと」
津田がそう言い残して姿を消し、キャビンで泥酔していた利章を手際よく回収してくると、そろってその場を抜け出した。
「パンツがない」
大賀が肩をかしてやり、なんとか自力で歩かせていた利章が、いきなりこう叫んだ。
「パンツがないよ、敬ちゃん!」
利章のいう「敬ちゃん」とは、叔父である津田のことだ。
見れば利章はジーンズをきちんとはいていたので、酔っ払いの戯言だろうと大賀は相手にしなかったのだが、後ろを歩いていた津田が「しかたないだろ」と肩をすくめた。
「暗くて、下着なんかどこに落ちているか見えなかったんだよ。おまえに乗っかってた女の子には引っかかれるし……」
津田があまりにも平然と戻ってきたので気がつかなかったが、どうやら寝室のほうは、乱交パーティーのような状態になっていたらしい。
大賀の驚いた表情を見て、津田はくすりと笑った。
「新城さんに自慢された」
「じまん?」
「真珠入れてるんだってさ。暗くて見えなかったけど、見ておけばよかったな」
「真珠……」
意味に気がついて、大賀はあきれ、つぎに吹きだした。
津田とゲラゲラ笑いながら、津田の所有する、マリーナ内のリゾート・マンションの部屋へ戻ると
「利章くんにこんなに飲ませるなんて!」
と仁王立ちになった知佳子に叱られ、「ごめんなさい」とふたりで素直に謝った。
その時、玄関にあおむけになっていた利章が「ぱんつー」と寝言をつぶやき、「え? パンツがどうしたの?」と知佳子が真顔で振り返るのを見て、こらえきれずにまた爆笑した。

南国のようなパームツリーの並木道。夏の夜空に光る星に、海の香りのするあたたかい風。笑い声。
それは幸福な一夜だった。

あの時の写真。
今の今まで、大賀も存在すら忘れていた、あの一枚。
津田も知佳子も、カメラを持ち歩くような人間ではなかったので、外出先で写真を撮るような習慣はなかった。
親戚である利章はともかく、大賀は津田夫妻と一緒に写真にうつったことはない。
だからこそ、あの夜の出来事が記憶の片隅に残っていたのだが、大賀はあのあと、知佳子に写真を見せたのだろうか。

週刊誌に掲載された小さな写真の中で、津田はグラスを片手に、リラックスした表情で微笑んでいる。
大賀の顔は目の部分が細く隠されて表情までは分からないものの、津田に囁きかけている構図は親密そうで、見ようによっては思わせぶりな写真だった。
「愛人関係にあった社員Aさん」
津田を中傷したい人間なら、山ほどいる。
それは本人の人格によるところではなく、津田が動かしてきた金の大きさの問題だ。

大賀が理解できないのは、これが知佳子の企てであるというところだ。
津田は亡くなっている以上、現実にダメージを受けるのは大賀と、そして誰より知佳子自身のはずだ。

――こんなことをして、彼女に何のメリットがあるというのか。
それとも知佳子は、本気で大賀が津田の愛人だったと、そう思い込んでいるのか?

記事の最後は「Aさんは複数の恋人を持つ、過去にも問題のある人物。次号では渦中の人物の衝撃の過去に迫る。」という予告で終わっていた。
「衝撃の過去」という、ありふれた表現が決して誇張ではないことを、大賀本人は知っている。
恋人の香織には、記事が目にふれる前に自分から説明しなくてはならない。
明日の朝には、上司にも呼び出されるだろう。
知佳子とは相変わらず連絡がとれないまま、その真意も分からぬまま、大賀は窮地に立たされることになる。
知佳子の思惑は分からないが、この程度のことで大賀が動揺すると思っているのだとしたら、なるほど彼女という人は、お嬢さん育ちの幸福な人間に違いない――
皮肉な笑みが口元に浮かび、大賀は頭痛薬がわりの酒で、グラスを満たした。
(俺はいくらでも自分を救ってやれる)
大賀には自分に対する、絶対の自信があった。それにもかかわらず、苦いものがこみあげてくるのは何故なのか、自分を苦しめる思いの存在に気がついて、ばかばかしいと首を振った。
津田の名前を汚してしまった、という思いが、思考の一角を占めていたのだ。

津田はもう、この世にいないのだ。
そして仕掛けてきたのは、津田の妻の知佳子だというのに。

かろやかな電子音が部屋に響きわたった。
携帯電話の電源は切ったままだ。
ここしばらく聞いたことのない、大賀の部屋の電話が鳴る音だった。

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