水上奇譚

2話「暗闇の中で」


「よう」
書類を片手に喫煙室へ足を踏み入れると、いつものように混み合っていた。
スツールに半分だけ腰をかけるようにして、片手に煙草、片手に携帯電話を持った男が、大賀に笑いかけた。
「外出?」
「いや、店舗さんと打ち合わせ」
そうか、と気の無い様子で頷くと、矢野はまた携帯のディスプレイに視線を戻す。

自動販売機を並べたベンダー・コーナーを兼ねた喫煙室は、狭さに不似合いな大型の空気清浄機が稼動しているのだが、喫煙者の多いこの会社の煙の量には追いつかず、いつも焼け跡のようなすすけた空気がただよっている。
大賀は矢野の隣でマルボロに火をつけると、ふう、と息をついた。
「お疲れのようで」
矢野は面白がっているような様子で、大賀を見た。
短期間のうちに大手企業となった津田の会社は、経歴も学歴も様々な人間であふれている。
大賀の現在の職場である業態開発部のような本部組織では、この業界ではごく普通のキャリア――直営フランチャイズの店長を経験し、スーパーバイザーを経て来たような――を持つ大賀のような人間のほうが、むしろ珍しいほどだ。
大賀の隣で、さきほどから目にもとまらぬ指使いでメールを打ち続けている矢野にしてからが、広告代理店からの転職組だ。
かなり遊んできたらしい雰囲気を持つ矢野は、同年代の大賀にどういうわけか自分と同じ匂いを感じているらしく、親しみを持って接してくる。
大賀にはそれが可笑しくてならないが、広い人脈と情報源を持つこの矢野という男は、付き合っていて退屈しなかった。
「……というわけ」
自分の部屋でキャバクラ嬢と長年の付き合いの彼女が鉢合わせた、という事件を面白おかしく話し終えた矢野に、大賀は「ははあ……」と感心して首を振った。
「よくまあ、刺されずに済んだな」
「そこはそれ、俺の土下座が効くわけよ。そこはもう勢いで土下座。号泣して土下座。これ最強」
最強ねえ、と声をたてずに大賀が笑っていると、矢野はふと表情を変えた。
「ところで、あれ、聞いたか?」
「あれって」
「会長の奥さん、なんかヤバイことになってるって話」
「会長って――津田さんの?」
大賀は背中にひやりとするものを感じた。
会長の奥さんとは、津田の妻の知佳子のことだ。

先月の津田の急死は、おどろくほど会社組織に影響を与えなかった。多少の人事異動はあったものの、全ての交代が速やかに行われ、大賀のまわりでも何事もなかったかのように日々の業務は続けられていた。

津田の手がけるビジネスは、華やかな話題には事欠かなかった。
海外から招いた有名シェフの名前を冠した店をオープンさせ、あきれるほど高価なチョコレートを売るショコラティエを行列の出来る店にまでして、派手な商売を続けていた。
経営者としての津田敬司朗の真価は、その裏側で、徹底的に利益にこだわったところにある。
売り上げの向上ではなく、利益を上げること。
食材の原価率から配送にいたる費用まで、だまっていても利益が出るようなシステムを構築することに心血をそそぎ、それを洗練の域にまで高めていた。
いずれ世間の変化によって失われていくものに違いないが、あと数年は。
あと数年の間は、津田の残したこの会社が、経営者の生前と変わらぬ機能を果たし、利益を生み出しつづけていくことを、大賀は信じて疑わなかった。

大賀が気にかけていたのは、知佳子とまったく連絡がとれないことだった。
津田の甥である利章も同様であるらしく、「チカさん元気かなあ」などと電話をかけてきては、大賀から様子を聞きだそうとするほどだ。
知佳子のことが気がかりではあったが、亡くなったボスの妻のまわりをうろつく、というのが世間からどう見られる行為であるかが分からないほど、大賀は世間知らずではない。
いずれ連絡もあるだろう、その時は利章と訪れて元気づけてやろう、と結論づけて、そのことは頭の隅へと追いやっていた。
「……なんかねえ、会長の奥さん、取締役連中とモメてたらしいよ。岡さんとか、ほら、創業以来の古いメンツと」
「へえ、なんでまた」
矢野は、津田夫妻と自分との関係を知らない。
何気なさそうに大賀が先を促すと、矢野は携帯をいじりながら、こう言った。
「経営のことじゃなくて、暴露本ていうの? ああいうやつ。奥さんが出版社に話を持ち込んで、それが事前に岡さんたちに知れちゃったとかで――」
「暴露本……まあ、これだけの会社にするには、いろいろあっただろうけど」
センセーショナルな内情もからめた、津田の自伝のようなものだろうか。
大賀の独り言のような呟きに、矢野は視線を上げてニヤニヤと笑い、「ちがう、ちがう」と煙草をはさんだ手を振って見せた。
「そっちじゃなくて、ホントの暴露本だよ。シモ系の。相当えげつない内容だったみたいだぜ。岡さんが青くなって止めに入ってるらしいけど、どうなるかね。まさかあの淡白そうな会長さんがねえ、あっちのほうの人だったとは、ビックリだね」
「……なんだって?」
耳を疑って、大賀は聞き返した。


津田に関するスキャンダルが世間を騒がせる、三日前のことだった。

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