「Change the world」

第十八章

「ぶへぇ、やっと着いたー!!」
 助手席の志村が大げさなため息をつく。フェアレディZは九州自動車道の大宰府インターチェンジを潜り抜けて、連結している福岡都市高速に乗り入れた。
 夕方のラッシュアワーなので都市高速もちょっと車が多いけど、福岡のドライバーはここが法律上は制限速度六〇キロの一般道であることを知らない――というより、知ってても無視している――ので、流れはかなりスムーズだ。
 夕暮れというよりもうっすらとした宵闇に包まれ始めた街並みが、高架のフェンス越しに広がって見える。福岡というところは市街地のすぐそばに空港がある関係であまり高い建物は建てられず、ネオンの灯りもかなり遠くまでなだらかな高さで連なっている。
 同じようなことを昨夜、二人も話していたらしかった。
 しばらく福岡というのがどういうところか、思いつくままにしゃべった。テレビでよく”博多”という地名が出るので(それと主要駅が”博多駅”なのもあって)福岡の県庁所在地は博多だと思っている人が少なくない、という話をしたときに、志村が実は福岡と博多は別のものだと思っていたと白状した。
「だってよ、それは紛らわしいぜ。悪いのは俺じゃねえよ」
「いや、おまえだろ。47都道府県の県庁所在地は、ちゃんと社会の授業で習うんだから」
「いつの話だよ、それ」
 向坂の指摘に志村が不満そうに顔をしかめる。後ろのプラス2から”しょうがないな”という感じの苦笑が聞こえてくる。
 行きと違ってカーナビの操作の必要がないから、という理由で、帰りの車中では二人は座席の位置を入れ替えていた。
 自分が命じておいてなんだけど、長身の志村にとってZの後部座席はトランクに押し込められているのとあまり変わらなかっただろう。一方、向坂は狭いところが苦にならない性分なのか、さっさと靴を脱いでシートの上で半分寝そべるような格好になっている。
 アタシがそうしろと言ったわけじゃなかったけど、向坂がアタシの視界に入るところからいなくなってくれて、正直ありがたかった。
 とてもじゃないけど、彼の顔をまともに見ることができなかったからだ。
 
 
 あれからアタシは、カセットテープとスクラップ・ブックを手に書斎に戻った。
 向坂にそれらを見せて――その間に志村に<ア・ホール・ニュー・ワールド>を歌って聴かせる羽目になったけど、それは別にいい――アタシは、それが彼の祖母の”本当の”気持ちだったのではないかと言った。
 もちろん、彼は反発した。
 アタシは隠されていた手紙で知っていたけど、向坂もまた、ほとんど全てのことを知っていた。
 安斎啓子と向坂一典の間に身体の関係があったことや、二人の間に子供ができたこと。
 それが元で啓子が離婚したことや、子供は結局生まれてこなかったこと。
 知ってか知らずかはともかく、向坂一典が安斎千晶の夫として啓子の前に現れたこと。
 自分の存在が祖母の過去の汚点を思い出させること。
 祖母が何も知らない孫に憎しみをぶつけないために、自分と距離を置き続けていたこと。
 アタシはたまらなく悲しかった。向坂が吐き捨てるように口走ることが、一つとして安斎啓子が兄に語った事実と違わなかったからだ。

 ――真実が必ずしも誰かの心を救うわけじゃない。

 脳裏に木霊したのは、またしても村上の言葉だった。けれど、今度は続きも一緒に浮かんできた。

 ――さっきの言葉には逆の意味もあることを覚えておけ。真実が美徳とは限らないように、嘘が悪徳とは限らんということだ。

 そうか、そういうことか。
 おそらく、村上はアタシの説明を聞いていて、こうなることを予想していたのだ。だから、普段はアタシを諭したりしない寡黙な男があんなことを口走ったのだ。
(ふん、今度会うたらコーヒーを浴びるほど飲ませてやらないけんね)
 心の中でそう一人ごちて、アタシは芝居がかった足取りで向坂の前に回り込んだ。近くにあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。やるべきこと、たどり着くべき結論はハッキリしていた。そして、そういう状況で嘘を並べ立てさせれば、アタシの右に出る人間はそうはいない。
「――ねえ?」
 アタシは志村を呼んだ。
「なんだ?」
「向坂くんって女の子にモテる?」
 怪訝そうな顔をする二人に向かって、アタシはゆっくりと口を開いた。
 
 
 さっきから、アタシの携帯電話は振動しっぱなしだった。それが由真からのメールが届いた知らせなのは間違いなかった。こんな時間にメールを送ってくる知り合いが他にいないからだ。
 内容はどう考えても催促以外ではあり得ない。
(どがんしようかな――)
 向坂に抱いている後ろめたさから逃れる一番手っ取り早い方法は、このまま二人をホテルに送り届けて、そこでお別れしてしまうことだ。
 二人はそれで文句を言ったりはしないだろう。由真には二人の男の子とは話しているうちに何となく気が合わなくなってきて、そのまま帰ってきてしまったと言えばそれで済む。もちろん、相当なブーイングを浴びる覚悟はしておく必要があるが、由真には二人と連絡をとる方法がないので何を言っても後の祭りでしかない。
 二人が泊まっている西鉄グランドホテルのほうへ、渡辺通りから明治通りへと右折するレーンに入った。一台前の佐賀ナンバーのバンが右折信号が出ているのに停まってしまったので、アタシもその後ろでちょっと急なブレーキを踏まされた。
「あー、もう。ヘタクソ」
「昨日の法律事務所のオンナもそうだけど、福岡のドライバーって口悪いよな」
「そうなん?」
「おい、他人事みたいに言うな。おまえも含めて言ってんだよ」
「まー、仕方ないとよね。黄色まだまだ赤勝負、とか言う人が多か土地だけん」
「だから、他人のせいにするなっつーの」
 志村に向かって反論しながら携帯電話を開いた。メールはやはり由真からだった。アタシが長文のメールが嫌いだという理由で文面はとんでもなく短い。
 <こっちは終わったよ。いつでも合流OK!!>
 メールにはカメラの画像も添付されていた。彼女が仲良くしている――アタシも一応はその輪に入っているが――いつもの三人組が、由真の背後に割り込むようにして写っている。そういえばこのメンバーには字は違うけどケイコとチアキという向坂に所縁のある人物と同名の人間がいる。偶然の一致に過ぎないことは分かっているけど、今のアタシはそれを笑う気にすらなれなかった。
 ちょっと待て。
 ということは、今日のこの小さな旅はすでに仲間内では周知の事実なわけだ。そして、彼女たちは由真と行動を共にしている。それはつまり、アタシと由真が合流するときには彼女たちもそこにいることを意味している。
 慌てて出かけようとして、由真に口止めするのを忘れていた自分の迂闊さを呪った。
「どうかしたのかよ?」
 志村が言った。アタシは知らないうちに携帯電話の画面を睨みつけて、思いっきり眉根を寄せていた。慌てて笑顔を作ってパタパタと手を振った。
「ううん、別に何でもなかよ。――そろそろホテルに着くけん、荷物とかまとめとってね」
「ねえよ、そんなもん。手ぶらだし」
「そ、そがんやったね」
 アタシは何を焦っているのだろう。二人に荷物などないのは知っていたはずだ。
 信号はまだ変わらない。
 今のうちに由真に返事のメールを打ってしまおうかと思った。福岡の大動脈であるこの通りはラッシュ時の流れが悪いので、メールを打つのが遅いアタシでもその程度の余裕はある。ブーイングが四倍になるのは気が重いけど、断りを入れるのなら早いほうがいい。
 ルーム・ミラーでチラリと後部座席の様子を窺った。向坂はZのリア・ウィンドウから天神の街並みを眺めていた。
 渡辺通りの両側に同じくらいの高さのビルが延々と続いている様は、異邦人である彼の目にどう映っているのだろう。福岡という、おそらくこんなことがなければ訪れることのなかった街は。
 そんな街で出会ったアタシという人間は。
 思い直して、急いでメールを打った。
<もうすぐ二人が泊まってるホテル。一回、家に帰ってから合流するつもり。そっちは?>
 返事は間髪いれずに返ってきた。
<じゃあ、あたしも一回、家に帰るね。みんなとはキャナル集合ってことで>
 三人を連れてきていいといった覚えはなかったけど、すでに既成事実となっていることに文句を垂れても始まらない。そもそも、由真にアタシの意見を聞く耳などあろうはずがないのだ。
<了解。じゃあ、あとで>
 それだけ打ったメールを送って携帯電話を閉じた。
 信号が青に変わっても右折車はほとんど前に進まない。右折の矢信号が出てようやくZを明治通りに乗り入れることができた。そこまでくれば西鉄グランドホテルは目と鼻の先だ。
 その車寄せで二人をデートに誘った。ちょっと恩着せがましい口調で言ってみたら、意外なことに先に誘いに乗ってきたのは向坂のほうだった。
「道に迷わんごとね」
 それだけ言い残して、着替えに帰るために薬院方面へ走り出した。
 裏道をぶっ飛ばしながら、自分がどうして彼らと別れてしまわなかったのかについて考えを巡らせた。答えは意外と簡単に出た。アタシは嘘をつくことに疲れていたのだ。向坂と志村にも、由真たちにも。
 そして、誰より自分自身に。
 

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