「Change the world

第十九章

 二人との待ち合わせの場所はキャナルシティのシアタービルの二階にあるHMVの前だった。キャナルシティの入口は幾つかあるけど、アタシは<近くまで来てるけど迷った>とSOSを送ってきた志村に上川端商店街から国体道路を渡る陸橋を教えていた。
 その商店街側の入口も実はちょっと分かりにくいところにあるけど、誰かしら通っている道なのでそれについていけば何とかなると思ったのだ。最悪、その辺の人に訊けば辿り着けるはずだし、陸橋からだとHMVはキャナルの建物に入ってすぐのところにある。
 アタシがHMV前に着いたときには志村はすでに店の前にいた。向坂の姿は見当たらない。
「どーしたんだ、おまえ?」
 志村はアタシの姿を見るなり、火をつけずに咥えていたタバコを取り落としそうになった。
「何が?」
「いや、さっきとはえらくイメージが違うなって思ってさ」
「そう?」
 とぼけてみたけど、ハッキリ言って確信犯だった。
 昼間のウェスタン調とは打って変わって、今のアタシは――待たせている三人組が思わず絶句したほど――ガーリーに仕上がっていた。春らしいカナリア色のワンピースにオフホワイトのニットカーディガン、黒のタイツとダークブラウンのショートブーツ。手にはキャンバス地のポシェット。セミロングの髪に生まれて初めてヘアアイロンというやつを当てて緩やかなロールをつけている。頭にベレー帽を乗せるのだけはさんざん迷って、あまり似合わないという理由で諦めた。
 自分ではうまくできないのでメイクは由真にやってもらっている。これまた生まれて初めてビューラーで睫毛をカールさせたら、普段のキツい目つきが多少はやわらかくなったのには驚いた。小学生のときからこっそりメイクをしていたという由真のテクニックもあって、メイクを施したアタシはむしろ普段よりもあどけなくさえ見えた。
「似合わんかな?」
 アタシが訊くと、何故か志村は急にそっぽを向いた。
「そんなことねぇよ。俺は――」
 その後は口の中でゴニョゴニョ呟いただけなので、何を言ったのかは分からなかった。
「ところで、向坂くんは?」
 志村はHMVの店内を指差した。
「欲しいCDがあるんだとさ」
「へえ。ところで志村、あんたも人のこと言えんっちゃないと?」
 昼間は不良モノのマンガに出てくるような格好だったくせに、今はブラウンのコーデュロイのジャケットにダークグリーンのタートルネックのニット、ベージュのコットンパンツという小ざっぱりした出で立ちだった。襟元や手首に鈴なりになっていたシルバーのアクセサリの姿もない。
「俺はそのままでいいって言ったのに、永が着替えろってうるさくてさ。しょうがないから、ホテルの人に訊いて近くのユニクロに行ったんだ」
「ふうん。でも、似合っとうよ」
「……サンキュ」
 館内は喫煙スペース以外は禁煙なので、志村は外でタバコを吸ってくると言った。アタシは向坂を捜してくると言って店内を指差した。
 向坂は洋楽ロックの棚の前にいた。
「何見ようと?」
「えっ――ああ、真奈ちゃんか」
 アタシが声をかけると、向坂は曖昧な笑みを浮かべて振り返った。
 彼も家出少年ルックとはずいぶん違っていた。大きめの格子柄のネイヴィー・ブルーのネルシャツに白いフリースジャケット、細身のストレートのデニム。靴もコンヴァースのハイカットに履き替えている。カジュアルな着こなしが似合うイメージはなかったけどバランスは悪くなかった。痩せているなりに均整の取れた体格なのだろう。が、しかし――
 驚きとちょっとの笑いを何とか押し隠した。それには気づかず向坂は話を続けた。
「いや、車の中でエリック・クラプトンのことを話しただろ。それで思い出したことがあってさ。実はこの人の曲で一つだけ好きなのがあるんだ」
「へぇ、何ていう曲?」
「それが分からないんだ」
 なんだそりゃ。
 声に出さずにつっこんではみたものの、世の中には気に入っている歌でもタイトルを覚えていない人は意外と多い。ちなみにアタシはタイトルからアーティスト名、収録アルバムまで全てセットで覚える。
「サビのところの歌詞は何となく覚えてるんだけどね。こうやってCDジャケットを見てれば、思い出せるかなって思ったんだけど」
「うーん……。どがん曲やったか、思い出せん?」
「映画の主題歌じゃなかったかな。ゆったりした感じのバラードなのは間違いない。でも、肝心の曲名がね……」
 脳裏にクラプトンの曲のリストが浮かんだ。その中から一つを選ぶ。該当するのはおそらくこれだけだし、間違っていないことには確信があった。
「それ、こがん歌やない? ”If I can change the world,I'll be the sunlight in your universe”」
 向坂はこっちがびっくりするほど眼を見開いた。
「……それだ。すごいな、どうして分かったんだ!?」
「クラプトンが曲を提供しとる映画ってそがん多くないとよ。<チェンジ・ザ・ワールド>。使われとったんは<フェノミナン>って映画。ジョン・トラボルタが出とったけど、見た?」
「いや、映画は見てない。聴いたのはたぶんエフエムだと思う。――でも、真奈ちゃんってホントに洋楽好きなんだな」
「ん?」
「だってそうだろ。普通はあれだけのヒントで曲名まで言い当てられないよ」
「たまたま知っとっただけやけどね。まあ、好きなんはホント――って言うても、大半は父親の影響なんやけどさ」
「お父さんの?」
「うん。ほら、秋月でアタシが父親のデュエットの相手させられよった話、したやろ? あの人、ぜんぜん顔に似合わんっちゃけど洋楽大好きやったとよね。アタシの持っとるCDの半分以上はあの人のモンやし」
 向坂が肯く。その顔に何故か戸惑ったような色が浮かんでいる。
「どがんかした?」
「……いや、なんでもない」
 向坂はクラプトンのベスト盤を手にレジに並んだ。手荷物になるのにと思ったけど、フリースジャケットのポケットは大きくてCDくらいはすっぽり収まった。
 HMVを出て志村を呼びに外へ出た。ところが、タバコを吸っているはずの姿はなかった。
「どこ行ったとかな」
「その辺をちょっとウロウロしてるだけだろ。ここで待ってれば帰ってくるよ」
 外階段の欄干に背中を預けて、向坂は買ったばかりのCDのパッケージを破った。気難しそうな顔をしたクラプトン――まあ、大体いつもそうだが――が写ったライナーノートを取り出して歌詞を眺め始める。することもないのでアタシも隣で彼の手元を覗き込んだ。もちろん、字が小さすぎて読めやしないけど。
 しばらく小さな字を追っていた向坂の目が訝しげに細まった。
「うーん、変な歌詞だなぁ」
「えっ?」
「なんていうのかな、時制がよく分からないんだ」
 言わんとする意味がつかめなかったので、アタシは彼の手からライナーノートを受け取った。
「どこ?」
「サビのとこ」

If I can change the world
I'll be the sunlight in your universe
You would think my love was really something good
Baby if I could change the world

「”If I can change the world”は”もし、僕が世の中を変えることができるなら”だろ。その後は――」
「”君の世界を照らす太陽になる”やけど、それが?」
「いや、どうしてその後は”Baby,If I can”じゃなくて”If I could”なのかなって」
 ああ、そういうことか。
 向坂が変だと言っているのは、同じ視点のはずの曲の中で現在形と過去形が入り混じって使われていることだ。確かに、これを学校文法で捉えると違和感を感じるだろう。
「これね、時制の話やないとよ。なんていうとかな、丁寧な言い回しのときとか、そうやないなら現実離れしとることとか、あり得んのを自分でも分かっとうってニュアンスのときに過去形を使うことがあるったいね。日本語に訳すといまいち分かりにくいとやけど」
 リフレインの”Baby,If I could change the world”を強いて訳すなら”ベイビー、もし、僕に世の中を変えられたなら”とでも言い換えて、それが叶わぬ夢であることを表現するしかない。
「真奈ちゃんって英語、得意なんだ?」
 向坂は感心したようにアタシを見た。慌てて手を振って否定した。
「これも父親の受け売り。あの人、何でか知らんけど英語話せたとよね。それにだいたい、英語強かったら英語学科に落ちたりせんよ」
 アタシが大学の前期で落ちて後期の発表待ちなことは雑談の中で話していた。
「向坂くんは大学は?」
「推薦で去年のうちに。そんなに有名なとこじゃないけど」
「良かねぇ。アタシ、バカやけん、推薦の”す”の字もお声掛からんかったよ」
「バカ?」
 向坂は鸚鵡返しのように訊いてきた。
「そんなに大勢知ってるわけじゃないけど、真奈ちゃんくらい頭の良い女の子は初めて見たけどな」
「……なんね、褒め殺し?」
「そうじゃない。本当の話さ」
 アタシを面と向かってバカ呼ばわりする命知らずは祖父母と由真くらいしかいないけれど、だからと言って、ここまで意外そうな顔をされることも滅多にない。
 しかし、この話は掘り下げると照れるしかなくなる。なので、話題を変えた。
「ところで、志村は大学はどうなん?」
「ああ、それが俺にもまったく教えてくれないんだ。どうするつもりなんだか」
「アタシの勘やと、おそらくアメリカかどこかの名前書いただけで入れる大学に留学して、あっちで知り合うた日本人の友だちといろいろ悪さして、最後はFBIに逮捕されるんやないかって気がするとやけど」
「――聞こえてるぞ、真奈」
 背後から地を這うような低音の苦情が襲い掛かってきた。振り返ると志村は顔を思いっきりしかめながら、タバコの吸殻を空き缶に押し込んでいる最中だった。
「あら、あんたおったと?」
「気づいてて話振ったくせに、何言ってやがる」
 バレちゃ仕方ない。話に割り込むタイミングを見計らっているらしいのを目の隅で捉えていたのは事実だ。
「で、大学はどうなん?」
「おまえに心配される謂れはねえよ。受けるところはちゃんと決まってる」
「行くところやないとね!?」
 思わず吹き出した。他人のことは言えないが三月も半ばだぞ。
「いいんだよ、とりあえずどこか滑り込んどきゃ。社会に出ちまえば学歴なんか関係ねえし。ウチのクソ親父なんか中卒のくせに、大卒の連中をアゴで使ってるよ」
「ほう、志村。おまえ、親父さんのことを尊敬してたのか」
「尊敬なんかするわけねぇだろ。ただ、見本にはなるってだけだ」
「何が違うとかな」
 アタシが笑うと、向坂もつられたように笑みを浮かべた。志村はしばらく顔を真っ赤にして言葉を探していたが、やがて、憤然とした表情で「友だち待たせてんだろ? さっさと行くぞ!!」と怒鳴ると、アタシたちを待たずに肩を怒らせてズンズンと歩いていく。
「……どこで待ち合わせしとうとか、知らんくせに」
 笑いをこらえて呟いた。迷子になるまで放っておいても面白いかなと思ったけど、そういうわけにもいかない。そろそろ待たせている由真たちがしびれを切らす頃だからだ。
「俺たちも行こうか」
「そうやね。――あ、そうそう。二人とも着替えとると、向坂くんが言い出したと?」
「いや、違う。志村がどうしても着替えろって言うからホテルの近くのユニクロに寄ったんだ。俺は服のことはさっぱり分からないけど、珍しく志村が「あれがいい、これがいい」なんて言うんであんまり迷わなくて済んだ」
「……ふうん、やっぱりね」
「何が?」
「ううん、何でもない」
 含み笑いを浮かべるアタシを向坂は不思議そうな顔で見ていた。道理で着せられてる感がありありなわけだ。

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