「Change the world」

第十七章

 何故か忍び足で祠に近寄った。
 秋月が黒田藩の支藩だった頃からあったもののはずだけど、石造りの土台の上に載っているのはコンクリートで出来た小さな上屋だった。あまりにも古くなって建て替えられたのだろう。中に安置されている仏像だけが長い年月を越してきたらしく、真っ黒に黒ずんでしまっている。
「失礼します……」
 誰に言うでもなく声を潜めて祠の中を覗き込んだ。ミッション系の私立女子高に通っているにも関わらずまったくキリスト教を信じていないアタシだけど、同じくらい仏教や神道にも興味がない。それでも、こういう行為に本能的な畏れを感じてしまうのはアタシが日本人である証拠なのだろう。
 捜し物は拍子抜けするほどあっさり見つかった。仏像の背中側にビニールとガムテープでぐるぐる巻きにされた小さな包みがあったのだ。
 テープを破る一瞬、村上の声がフラッシュ・バックした。

 ――真実が必ずしも誰かの心を救うわけじゃない。

 確かにそうだろう。アタシも否定はしない。けれど、何が真実かを知らずにそれを判断することはできないじゃないか。
 和室に戻って、意を決して包みを解いた。
 向坂衛が教鞭を執っていた久留米大学の封筒の中身は封筒が一つとケースに入ったカセットテープだった。ラベルは貼ってなかったけど、代わりにケースに小さく折り畳んだ紙が入っている。
 まず、そちらを先に開いた。横書きのレポート用紙に書かれていたのは<ア・ホール・ニュー・ワールド>の歌詞とその和訳だった。端整なブロック体がタイプライターで叩いたように堅苦しく並んでいる。
 実はこの曲には思い出があって、アタシは英語の詩をほぼ丸暗記している。アタシの父親はひどい訛声のくせに歌うのが好きで、アタシは音痴の母親の身代わりでしょっちゅうデュエットの相手をさせられていた。そのレパートリーの中の一曲なのだ。アタシが洋楽オンリーなのはこの父親の影響なのだけれど、考えてみたら子供の頃からそんなことを強要されていながら、よく音楽嫌いにならなかったものだ。
 それはともかく。歌詞の和訳のところに目を走らせた。
 英語の先生らしい日本語としてはちょっと不自然な文章だった。行頭に括弧がついたところの言葉遣いが違っているのは、アラジンの台詞でもある男性パートとジャスミン姫の台詞の女性パートの違いなのだろう。
 これがここにあるのは、おそらく例の映画上映会の後に安斎啓子が<ア・ホール・ニュー・ワールド>のことを思い起こしたからだ。上映会の帰りに甘木市内のレンタル・ショップからCDを借りてきてダビングし、ついでに歌詞カードを書き写して和訳した――そんなところだ。
 もう一度、レポート用紙に目を通した。そこに何か、安斎啓子の感情の残滓を捜そうとした。例えば震える文字。あるいは涙の跡。
 そこにはどちらもなかった。映画を見て甦った遠い日の孫との思い出は、号泣したことですっかり昇華されてしまっていたのだろうか。
 レポート用紙をケースに戻して封筒に手を掛けた。
 内容はあまりにも惨いものだった。

     *     *     *

 前略、衛兄さん。

 突然、こんな手紙を送ることをお許しください。どうしても誰かに伝えなくては収まらず、だからと言って、誰にでも言えることではありませんでした。私には想いをぶつけられる相手は兄さんしかいないのです。
 実は先日、急に我慢が出来ないほど具合が悪くなって病院に行きました。以前から身体の調子が良くないとは思っていたのですが、これまで大きな病気をしたことがなかったものですから、つい軽視してしまっていたのです。
 診断の結果は、子宮がんでした。しかも、発見が遅かった為にかなり進行してしまっているようなのです。抗がん剤を使った治療を受けることにはなりましたが、正直なところ、お医者様の口調からは助かる見込みはあまりなさそうに思えました。
 こんなことを言っては兄さんに怒られるでしょうけど、死ぬことはさほど怖くありません。
 しかし、自分がもうすぐ死ぬのだということを考えるとき、私の人生は何だったのだろうという空虚な想いを抑えることができません。
 思えば、私の人生は過ちの連続でした。最初の夫との生活をどうして平穏に続けることができなかったのかと今でも歯噛みすることがあります。もし、私があのとき、あの人を裏切らなければ、何もかもが違っていたはずだからです。千晶をあんなに苦しめることもなかったでしょうし、私のお腹の中に望まれない命を宿すこともなかったのです。もちろん、その子を失うことも。
 そして、その過ちの相手が千明の夫として再び私の前に現れることも。

 心残りは、永一のことだけです。
 私がこの世を去れば、あの子の面倒を見る人間はいなくなるでしょう。自分の娘を悪し様に言いたくはありませんが、千晶はむしろ永一に面倒をかける側でしょうし、父親は私の葬儀に顔を見せるかどうかすら怪しいものだからです。
 せめて、あの子が成人して一人前になるまでは、と思っていたのですが、それは叶わぬ望みなのですね。しかし、

     *     *     *

 文面はそこで一度、ブツンと途切れている。これまでのどの手紙でも見ることができなかった、文章を書くことに迷ったようなペン先の跡がそこにはあった。
 手紙は次の便箋に続いていた。

     *     *     *

 ごめんなさい。こんなおためごかしの為に、目が悪い兄さんに手紙を書いているのではありませんでした。
 今になって振り返ると、私は永一を愛していたのか、まるで自信が持てません。
 一人娘の千晶が産んだたった一人の息子です。私にとってもたった一人の孫です。愛せないはずはありません。ずっと、そう思って――いえ、思おうとしてきました。
 大切なかけがえのない存在だとは思っています。あの子の両親がまったく当てにならない以上、あの子の人生に責任を取れるのは自分しかいないとも思っています。
 愛そうと努力はしました。本来、祖母がする必要のない努力ですが(そうでしょう?)何とか、あの子へ自分の心を注ごうとしました。
 けれど、私は永一を受け入れることができませんでした。理由は言うまでもありませんね。歳をとる毎にあの頃の向坂一典に似てくるあの子が、私の過ちをまざまざと思い出させるからです。
 永一が悪いわけではないのは分かっています。当たり前のことです。同じように、あの子の父親が悪いわけでもありません。当時、彼は高校生で、私はその学校の教師でした。世間的に言えば、責められるべきなのは私のほうなのですから。
 けれど、私がこれほどに苦しんでいるというのに、何事もなかったような顔で私の前に現れたあの男を許すことはできませんでした。そして、それを思い出させる永一を受け入れることも、やはりできそうにありません。
 永一は賢い子です。私が自分にわだかまりを持っていることに気づいていたのでしょう。不必要に私に近寄ることもなく、それなのに、何とか私と打ち解けようとしてくれました。けれども、その努力の全てが、私にとっては苦痛以外の何者でもありませんでした。
 いっそ、あの子が赤の他人であってくれたら、と何度思ったことでしょう。そうであれば、ただ遠ざけるだけで済みます。しかし、肉親はそういうわけにはいきません。愛するべき家族であるからこそ、憎しみも同じだけ募っていくのです。

 死を現実のものとして捉え始めたときに、最初に浮かんだのがこんな想いであったことが恥ずかしく思えてなりません。結局、私は自分が犯した罪の亡霊に取り憑かれたままで、今日まで生きてきたのでしょうね。
 せめてもの償いに、私は最後のときまでこのことを心の奥にしまい込んで、永一の前を去ろうと思っています。あの子を愛していた、なんて嘘は口が裂けても言えませんが、私にしてあげられることはおそらくそれくらいでしょうから。

 追伸。
 予め電話でお願いしておいた通り、この手紙はくれぐれも横河家の方々の目に触れないようにしてください。私の病気のことも、同じように周囲には仰らないようにお願い致します。ですから、今後の手紙でもそのことには触れません。そのために、ひょっとしたら見え透いた嘘を書くことがあるかもしれませんが、そのときは愚かな妹の意地だと心の中で笑ってくださると幸いに存じます。

     *     *     *

「――ところで、真奈ちゃんは?」
 向坂の声がする。志村がそれに応える。
「さあ、どこだろ。奥の部屋じゃねえか?」
 二人は書斎で何やら話している。スクラップ・ブックがどうとか、そんな内容だった。
 いつまでもここにいることはできない。とっさに手紙を自分のバッグに押し込んで足元に置いていたスクラップ・ブックを拾い上げた。
 何をどうすればいいのか、すぐには分からなかった。アタシに分かったことは唯一つ、この手紙を向坂に見せてはならないことだけだった。

 ――真実が必ずしも誰かの心を救うわけじゃない。

 村上恭吾が投げつけた台詞が、頭の中でずっとリフレインしていた。
 

-Powered by HTML DWARF-