OVER番外編

天蓋の花 7


「やだ、あーついー! なんでよー、もう秋じゃないの?」
喪服を着た母が、「日傘持ってくればよかった……」と陽射しに負けそうな表情で空を見上げ、がっくりと肩を落とす。
真夏に執り行われたあの葬儀から、およそ一ヶ月ほどが経過していた。しかし地球が温暖化したいまどきでは、9月中旬は秋とは言えないかもしれない。
寺の入口をくぐってみると、隣には寺が経営する幼稚園があって、おもちゃのように小さな遊具が並んでいた。
俺は黙ったまま、本堂へ向かって歩き出す。
「永一? どうしたの?」
さきほどから反応のない俺に、不思議そうに首をかしげて、母親がついてくる。
俺が何も言わなかったのは、口を開けば、言う必要のないことを言ってしまいそうだったからだ。
本堂の石段を上がりきったところには、先に到着した父が立っていた。


読経はまだつづいている。
本葬に集まった10人ほどの親戚たちが並んで椅子に腰かけ、神妙な面持ちで数珠を握っている。
くすん、という物音にふと隣を見ると、また母親がしくしくと泣き始めていた。
その向こうに並ぶ父親は、お経に聞き入ってるような、故人を悼むような表情で、目を閉じたまま。
整った顔に、ふざけた陽気な態度、そして意外なところで見せる、どこか陰のある表情。

……こうして見ると、ある種の魅力のある男かもしれない、と思う。

確かにどうしようもない男なのだが、だからこそ「自分がいなければ」と思いこむ女もいるに違いない。
してもらうことよりも、してあげることのほうに喜びを見出す人間というのは、現実には意外と多いものだ。
「自分だけが理解してあげられる」「自分にだけは心を開いてくれる」という、この「自分だけが」というのは、強烈な麻薬のように、平凡な人間をとらえてしまう。
この父親は、きっと、ひとのそういった寂しさにつけこむのが上手いのだろう。

だから、そこじゃない。
どれほど女癖が悪かろうが、恋愛上手で駆け引きに長けていようが、
俺がこの男をクソ野郎だと思うのは、そこじゃない。


「……永一?」
いるはずのない俺を見つけて、父親は驚いた顔をしたものだ。
告別式が終わり、数日しかたっていない、8月の昼下がり。
オフィス街の路地を入ったところの、静かなカフェの奥という、教えられたとおりの場所に父はいて、モバイル用のノートPCを前に気持よさそうに煙草をふかしているところだった。
「おまえ、どうしてここに?」
洒落たスーツを着た父親は、今はそれなりの実業家に見えなくもない。
まあ、やっていることは仕事でなく、ただのネットサーフィンであるようだが。
俺がディスプレイ上の芸能ニュースに目をやったことに気づいて、父親はPCをパタンと閉じた。
「事務所のひとが、ここだろうって教えてくれた。小柳さんて親切なひとだな」
べつに特別な手品を使わなくとも、父親の居場所なら、ここにしっかりと住所電話番号まで書いてあるのだ。
俺が葬儀の時に手に入れたチラシを目の前に突き出すと、父親は鼻白んだ表情になった。
「それで? なんのつもりだ?」
俺はだまって向かいの椅子に座り、手にしていた書類封筒からコピーを取り出した。
「青陵高校の、卒業アルバム。火事で写真がひとつも残ってないって言ったら、みんな同情して写しをくれたよ」
その夜には焼き捨てることになる紙束を、俺はテーブルの上に放り投げた。
俺としては目的の年の一冊を見るだけで良かったのだが、根岸から紹介してもらった柔道部の後輩という人物がOB仲間に声をかけてくれたおかげで、アルバムだけではなく個人的なスナップなどの、あらゆる年代の祖母の写真が集まってしまったのだった。
「へえ、ずいぶん懐かしい写真があるじゃないか」
おどけた様子で、父親は紙を手にとって薄く笑った。
言葉とは裏腹に、懐かしむ様子でもなく、ろくに写真を見てもいない。
「…… 祖母 ばあ さんの教え子だったなんて、初めて聞いたよ」
俺の言葉に、父親はいかにも驚いたような顔をしてみせた。
「そうか? おまえに言ったことなかったっけ?」
「加地さんにも会って来た」
俺の一言に、ぴたりと動きがとまった。
しかしさすがと言うべきか、すぐに気持を立て直して「へえ、どうだった、お祖父さんとの初対面は?」と切り返してきた。

加地永介というのは、祖母が離婚した元夫であり、俺の母親の実父でもある。
今は再婚して、妻と会社員の娘と大学生の息子に囲まれて幸せに暮らす祖父は、相当な緊張を持って俺を家へ迎え入れたようだった。
俺としては、ただ当時を知る人物に事情を聞くだけのつもりでいたのだが、祖父のほうにはかなりの葛藤があったようだ。
これは単純に俺の育ちに問題があるせいだと思うのだが、相手が「祖父」であったからと言って、とくに心温まる再会をしたかったわけではないし、心情的にも金銭的にも何の期待も持ってはいなかった。しかし祖父にそのような事情が分かるわけもなく、突然「会いたい」などと言い出した孫の出現に、さぞ慌てたことだろう。
そういうわけで、双方の思惑がすれちがい、ぎこちない雰囲気で始まった対面だったのだが、意外な話をたくさん聞くことが出来た。

俺は何も知らなかったのだ。
祖母と父の師弟関係も。
父の在学中から、二人が深い関係にあったことも。
それが原因で、祖父と離婚したのだということも。

「べつに隠してたわけじゃない。まあ、昔のことだし、おまえとは関係ない話だよ」
……関係ない。
関係ないと、今こいつは言ったのか?
「先生とはすぐに終わったわけだし、おまえの母さんと知り合ったのはそのずっとあとなんだ。結婚を反対されたのも母さんが若かったからで、おまえには、まだ男と女のそういう事情は理解できないかもしれないけど、これは二股とかそういう話じゃなくて――」
「そうじゃないだろ」
俺は父親の、まるで台本を棒読みしているかのような長台詞を遮った。

この四年半の祖母との暮らし。
正確には、一緒に暮らした三年と、闘病生活の一年半という歳月。
病院から帰る坂道を、俺はいつも考えながら歩いていた。
何か、少しでも気がまぎれることはないだろうかと。
つらい治療、治るあてもない入院生活のなかで、何でもいい、何か祖母を楽しませることはできないだろうかと、いつもいつも考えつづけていた。
のんきなことに、俺は何も知らずにいたのだ。そして何とか打ち解けられないものかと、見当違いな努力ばかりつづけて――祖母が俺などよりはるかに複雑な思いをかかえて一緒に暮らしていたことなど、知らないまま。
情けなく、くやしかった。 
知っていれば、言えたかもしれないことも、言わずにいたかもしれないことも、もう全部が手遅れで。

「どうして、俺を……」
鼓動が早くなる。
怒りのせいで、胃のあたりがむかむかする。
「どうして、俺を押しつけたりしたんだよ」
「え?」
聞き返されたのは、聞こえなかったのではなく、おそらく意味が伝わらなかったからだろう。
その事実に、俺はやるせない思いを噛みしめた。
「……どうして、俺を 祖母 ばあ さんに押しつけたりしたんだよ」
父親は理解できない様子で首をかしげた。
「それは、だって千晶が決めたことだろ? お祖母さんがそうしなさいって言ったって――」
このクソ野郎、と俺はののしったような気がするが、もしかしたら口には出していなかったかもしれない。
とにかく俺はイスを蹴って立ち上がり、父親に掴みかかったのだ。

どうして俺の面倒を、おまえが捨てた女に押しつけたりできるんだ。
どうしてそんなことをさせたんだ。

俺が手にしている書類封筒の中には、加地永介という祖父から預かった手紙が入っている。
祖母は手紙の中で別れた夫に謝罪していた。
だいたいの内容は、以下のようなものだった。

裏切ってしまって申し訳ないことをした、という詫びと。
娘とは今後も会ってやってほしいという希望と。
失った子供の供養をしながら、静かに暮らしていますという、近況。

失った子供。
離婚の直接の原因になったという、祖母と俺の父親との間に出来た子供。
祖母は俺の顔を見るたびに、何度もそのことを思い出したはずだった。
結局は、生まれることのなかった子供のことを、何度も思い出したに違いなかった。
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