OVER番外編

天蓋の花 5


「ああ、永一くん!」
寿司と酒が並べられた通夜振る舞いの席へ戻ると、瀬戸先生が待っていた。

「先生、どうも遅くまで……」
堅苦しく頭を下げかけた俺に、「疲れたでしょう。大丈夫?」と労いの言葉をかける。
この祖母の古い同僚は、うちの母親にとっては母がわりと言ってもいいほどに世話になっているひとで、俺の通う高校の教師でもある。
「今ねえ、こちらの根岸さんにアルバムを見せてもらっていたところだったの」
元気のない俺の気を引き立てるように明るく言って、瀬戸先生が背後を振り返る。
「根岸です、どうも。ああ、先生にそっくりだなあ、娘さんのご長男ですか?」
俺を見て、なつかしそうに目をほそめる。
何かスポーツでもやっていたのだろう、大柄で体格のよい頭の禿げ上がった人物だった。

「……青陵?」
臙脂色の表紙に書かれた「青陵高等学校」の文字に、目をひかれた。
聞いたことのない学校名。
いや、聞き流してしまっただけで、弔問客の何人かが「セイリョウ高校でお世話になって」と言っていた――ような気もする。でも、祖母の口から聞いた記憶はなかった。

「うちの学校の前に、安斎先生がいらした学校なの。聞いたことない?」
「いえ……いつくらいですか?」
ぼんやりと呟いて、手の中にあるアルバムを眺めていると、大きな手を伸びてきて、根岸という人がページをめくった。
「ここ、これが大きいかな? 安斎先生は学校出たてで、新任だったんじゃなかったかなあ。若い先生がいなかったんで、うちの顧問をおしつけられたみたいで」
「顧問?」
「ほら、柔道部です」
言葉のとおり、白い道着姿の部員たちを背後に従えて、中心に立っている若い教師。
「……本当だ」
そこにいたのは、髪の長い、20代のころの祖母だった。
こんなに若いころの写真は、初めて見る。
「きりっとした、きれいな人でねえ。このころもう結婚していて娘さんもいたはずだけど、すごく人気のある先生でしたよ。学校をうつる前は、部のあつまりにもよく顔を出してくれて、ほんとに面倒見がよくて……」
根岸の思い出話の中にいるのは、頑固で無表情で冗談ひとつ言わない俺の祖母ではなく、献身的で熱意にあふれた若い教師だった。
でも、そういうものかもしれない。
ひとりの人間には、一人分の時間と体力と熱意しかないのだ。
教師として素晴しい人物が、良い家庭人になれるとはかぎらないだろう。
「そうですか……」
古びたアルバムに視線を落とす。
人気があったというのは嘘ではないらしく、アルバムのあちこちに祖母を見つけることができた。
服装は地味なスーツばかりのお堅い印象だが、こうして見ると、確かに目をひくほど綺麗な人だ。

……なんだろう。何かが、胸の奥をざわめかせた。

(先生はそういう人じゃないだろ)

アルバムの表紙に刻まれた昭和を、頭の中で西暦に換算してみる。
ちがう。このころじゃない。
あるとしたら、もっと後の時代のはずだ。
「あの、根岸さん」
迷いながら顔を上げると、変にあらたまった俺の様子のせいか、根岸は戸惑った表情を見せた。
「え? あ、なんでしょう?」
お聞きしたいことがあるんですがと、俺は切り出した。


去年の秋、家が全焼したことを告げた俺に
「本当に全部? 何か焼け残ったものはないの?」
と祖母は何度も聞いてきた。
正確に言えば、全部が灰になったわけではないが、使用可能なもの、原形をとどめているものはひとつも無かった。
火勢があまりにも激しく、残ったのは庭の梅の木くらいのものだったのだ。
気休めを言っても仕方が無いので、事実ありのままを説明した。

「本当に? 確かめた?」

ベッドから上半身を起こし、何度もそう尋ねる祖母に、俺は同じ返事を繰り返した。
無理もない。服も蔵書も思い出の品も一夜にして失われたなんて、信じたくないに決まってる――その時の俺は、そう思っていたのだった。
もしかしたら、と思う。
家を失わせて申し訳ないという気持と、当時の骨折だらけの自分の状態を隠すことに気をとられていたせいで、俺は祖母の言葉の意味をはきちがえていたのかもしれない。

祖母はただ、確認したかったのではないだろうか。
本当に、すべてがきれいに無くなったのかどうかを。

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