OVER番外編

天蓋の花 4


のうまくさんまんだーばざらだん、せんだ――


「真言宗のお経って面白いよなー、密教マンガみたい」
長めの髪をうしろになでつけ、見た目だけは、ややまともに喪服を着こなした父親が、こっそりと俺に耳打ちする。
「……いいから、前向け」
周囲に聞こえないよう、表情を変えずに注意すると、
「おおこわ!」
おおげさに肩をすくめて体をひいた。
だいたい、密教マンガって何の話だ。

予想はしていたが、この男は、葬儀という名の退屈なこのイベントに、さっそく飽きてきているのだった。
この集中力のなさ。
まるで中学時代に志村と教室で机を並べていた時のようだが、問題はこの男が子供の志村でなく、大人である俺の父親で、これが授業でなく葬式の最中であるということだ。
この男が隣にいるというだけで、昔から自分勝手でこらえ性ゼロの母親が、三割増に常識人に見えてくるのだから不思議なものだ。
その母親はと言えば、さっきから泣きっぱなしだった。
あれだけ仲の悪かった祖母の死に号泣するところは意外なような当然のような気がしたが、問題はつけなければよかったマスカラで、今現在の顔の状態はすごいことになっている。
読経のつづいてる今はともかく、焼香の時にどうしたらいいんだと思うと、胃が痛い。

やれやれと思いながら顔を上げると、遺影の祖母は、ただ穏かに微笑んでいる。
持ち物という持ち物を火事で失っていたために、古い知り合いからようやく調達したこの写真は、10年も前のものだった。
合成された背景の不自然な青色はさておき、いい写真だ。
祖母がこんなふうに笑うのを、俺は一度も見たことがない。

死の間際でさえ、受験生である俺に「勉強はしているのか」と聞くような人だった。
ほとんど起き上がれなくなってからでさえ、「何も毎日来ることはない」と迷惑そうに顔をしかめた。
俺の世話になるのが、不本意だとでもいうように。
俺という孫に、もう少し可愛げがあったなら、何かが違っていたのだろうか。
もう少し歩み寄れていたら、ぎこちなく始まった同居が、ぎこちないまま終わることはなかったのか。
もう少し、もう少し。
ここ数ヶ月の間ずっと考え続けてきたことを、手遅れになった今になっても、俺は性懲りもなく、こうしてまだ考えつづけている。


もめにもめた挙句に、結局は宗派のちがうこの寺に仮の葬儀をお願いすることにして、ようやく通夜になだれこむことが出来たのは、三日後の今日だった。
驚いたのは、弔問客の数だ。
びっくりするほどの長い列が出来て、これは祖母の古い同僚である瀬戸先生の連絡網のおかげというかせいというか、感謝すべきところなのだが、正直に言えば俺はゲンナリしてしまった。
誰が同僚で恩師で生徒だったひとなのか、一同が通過した今となっては、もうわけが分からない。
もっと驚いたのは、まったく存在しないと思っていた親戚というものが、大挙して押しかけてきたことだ。

「あらあらまあまあ、大きくなって! 永一君は何年生になったのかしら?」
「高3です」

という会話を100回は繰り返した。
何人かは俺が物心つくまえに法事か何かで会ったことがあるらしく、
「赤ちゃんのときに抱っこしたのよ。おばさんのこと覚えてるー?」
と聞いてくるのだが、覚えているわけがない。
要するに、祖母は俺が思い込んでいたような天涯孤独の身の上だったわけでなく、自分の離婚のせいか15才で家を飛び出して子供を産んだ娘のせいかは知らないが、親戚づきあいというものを自分から絶っていたらしいのだ。

「あ、どうもご無沙汰しております。いやー、お変わりなくー」
動揺のあまり、いつも以上に表情をなくしていた俺にくらべて、父親は感じよく社交的にふるまっていた。
その気になれば、この男はそれなりに魅力的な人間にもなれるのだ。
親族の控え室で如才のないトークを展開して俺を感心させたが、いつのまにか自分の商売のチラシを配っていたのを母親に見つけられ、さっそくケンカになっていた。
俺もそのチラシを見たのだが、今度の商売は自費出版の会社であるらしく、カラー刷りの豪華なチラシには「各界から絶賛!」「私たちはこれを待っていました!」という、ものすごく詐欺くさいコメントが寄せられていた。
賭けてもいいが、この出版社は一年後には確実に存在していない。


そうこうしているうちに、通夜は無事に終わりかけていた。
通夜振る舞いの席には、まだ人が残っていたが、すでにそれはただの宴会となりはてている。
そろそろ休憩してもいいだろうと、通常の10年分ほどの人間と言葉を交わし、やや集中力を切らしていた俺は、見つけた裏口から外へ出た。
すっかり暗くなった空を見上げて、ぼんやりと立っていると手持ち無沙汰で、煙草を吸う人間の気持が今はなんとなく分かる気がした。

「……知らないって言ってるでしょ、そんなもの」
「本当に? 確かめたか?」

物陰での、低い声の男女のやりとり。
本人たちは声をひそめているつもりのようだが、俺でなくともすぐに誰の会話であるかは分かったはずだ。

――この親たちは、そろってこんなところで何をしてるんだ?

「手紙なんか、捨ててるに決まってるじゃない」
「おまえじゃあるまいし、先生はそういう人じゃないだろ」
「なによそれ。何でもいいけど、水子供養とかそういうの、永一に言わないでよね!」

……何の話だ?

いつもの金がらみの喧嘩かと思っていた俺は、足をとめて振り返った。

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