「Change the world

第二十七章

 屋台を出て、しばらく目的もなく歩いた。理由は主に腹ごなしだ。
 食べ過ぎたのか、向坂がさっきからやたらと胃のあたりをさすっている。料亭から通して考えてもアタシのほうが食べているはずなのにアタシは何ともない。これはアタシが女子らしからぬ大食いなのではなく、向坂が男子らしからぬ食の細さなのだ――ということにしておこう。
「どこ行く?」
「真奈ちゃんが連れてってくれるとこならどこでも」
「その言い方、微妙にズルかよね」
「仕方ないだろ。知らない土地なんだから」
「そうやけど」
 一〇時を過ぎても賑やかなのは盛り場だけで、いきおい、アタシたちは天神西通りへ足を向けることになった。
「まさか、帰れるとか思っとらんよね?」
 彼らが泊まっているホテルの前ではアタシが先に釘を刺した。
「そんなこと、思ってないよ」
「ならよかけど。――寒ッ」
 唐突に風が吹いて、思わず自分の肩を抱いた。さすがに三月の夜は肌寒い。アタシは由真に恐竜呼ばわりされるほどその辺の感覚が鈍いし、アルコールで身体は温まっているはずなのだけれど、それでも冷えるのだから本当は相当に寒いのだろう。
 向坂は無言で着ていたフリースジャケットをアタシの肩にかけた。新品なので彼の匂いはほとんどしないが温もりはしっかり残っている。
「……ちょっと、そしたら向坂くんが寒かろうもん」
「俺は部屋からコートをとってくる」
「えー、あの家出少年みたいなやつ?」
「悪かったな」
 向坂はすぐ戻ると言い残して走り出した。寒い外で待っているのも何なので、アタシも西鉄グランドホテルのロビーに足を踏み入れた。
 市内に住んでいればホテルに泊まる機会はないけど、もし泊まるのなら春吉のイル・パラッツォかこことアタシは決めている。
 決して真新しくもなければ華美さもないけど、老舗のホテルらしい落ち着いた雰囲気は出そうと思って出せるものではない。「伝統だけはカネをかけても作れない」と、実家が北九州でホテルを経営している村上が尤もらしいことを言っていたが、表現はともかく、そこに漂う空気が積み重ねられた時間と伝統を感じさせるのは事実だ。他に高級ホテルが幾つもオープンした今でも、このホテルを定宿にしている有名人は多いのだという。
 降りてきた向坂とすれ違ったら困るので、エレベータの近くにある柱に背中を預けて待つことにした。ボンヤリと辺りを見回していると、屋台で向坂が言ったことが耳の奥底でリフレインする。

 ――さっきから聞いてると、憧れの人のことを話してるようにしか聞こえないんだけどな。

 村上恭吾がアタシにとって憧れの人というのは、まんざらハズレでもない。
 アタシが村上に出会ったのは、母が亡くなってすぐのことだった。自炊能力ゼロの村上を見かねた父親が「どうせ大鍋でまとめて作るんだから一人分くらい食い扶持が増えたっていいだろ?」とアタシに断りもなく家に連れてきたのだ。
 後の横柄な態度が嘘のように恐縮する村上の様子を、アタシは今でも鮮明に覚えている。今でも三〇代の公務員にしては髪を伸ばしているけど、当時の流行だったのか、そのときは今よりもっと長かった。前髪の顔への被さり具合が向坂と同じくらいで幾らか根暗に見えたせいか、第一印象はそれほど強いものではなかった。
 それが大きく変わったのは共に食卓を囲んだときだった。
 アタシが最初に村上に振る舞ったのは今日と同じ水炊きだった。正直、あまり満足のいく出来ではなかったのだけれど、村上はとても美味しそうに箸を進めていた。
 そんな中で立ち上る湯気に曇る眼鏡を外したときに見えた、ちょっと女性的なところすらある柔らかくて端整な横顔にアタシは目を奪われた。
(……うわぁ、こがん男の人がおるとやねぇ)
 最初はそれだけのことだと思った。
 けれど、村上が帰った後にお風呂でボーっとしているときやベッドに入って天井を見上げているとき、彼が見せた表情の一つ一つが脳裏に浮かんだ。彼の声を思い浮かべるだけで鼓動がとんでもない速さになった。
 いくらオクテのアタシでも、それが恋だと気づくのに時間はかからなかった。
 そう言えば一度、日頃のご飯のお礼と中学生になったお祝いにと村上がプレゼントを買ってきてくれたことがある。今ではまったく考えられないことだけど。
 ――今どきの女の子にプレゼントを贈ったことがないから、気に入ってもらえるかどうか自信ないんだけどね。
 そう言いながら、彼が差し出したのはボーダフォンの真っ赤な携帯電話だった。
 確かにアタシは父親に「携帯電話を買ってくれ」と言ったことがあった。別に友だちと電話やメールのやり取りがしたいとかいう理由ではなく、父親に「今夜は何が食べたいか?」と訊くのにいちいち公衆電話を捜すのが面倒だったからだが。子供が携帯電話を持つのにいい印象を持ってなかったらしい父はいつも適当な返事でアタシをごまかしていて、村上はそのやりとりを何度も目の当たりにしていた。
 嬉しくなかったわけではもちろんない。
 でも、今どきの女の子らしからぬアタシから見てもそれは違うような気がした。事実、父はかなり渋い顔をしていたし、アタシも二つの理由で困惑を隠せなかった。一つは少なくとも他所の人に買って貰うようなものではないこと。もう一つは憧れている男の人から携帯電話をプレゼントされるのがどんな意味を持つか、村上がまったく理解していないこと。彼にとっては、それはただアタシが欲しがっていたから買ってくれた以上のものではなかった。
 アタシと村上は一回り以上歳が離れているし、いくらそうは見えなかったといっても、村上が当時中学生になったばかりのアタシにその気になるはずなどない。恋が成就するとはアタシも思っていなかった。アタシはただ、家にご飯を食べに来る素敵な男の人との時間を楽しんでいられればそれでよかった――しかし。
 欲しかったのは事実なので携帯電話は受け取った。けれど、彼の目に映る自分は子供なのだという事実はアタシの心を重くした。
 その後も村上の来訪は断続的に続いた。次第に横柄な本性を見せ始めた彼との言い合いは本気でムカつく反面、友だちの少ないアタシにとってちょっとしたレクリエーションでもあった。想いが届くことはなくても、歳の離れた兄でもいいからこんな関係が続けばいいな、などとアタシは思い始めていた。
 けれど、何事にも潮時というものはある。アタシの恋は村上が結婚していたという事実と、その相手である奥さんとの対面によってあっさりと終焉を迎えた。
 それを受け入れるのは決して容易なことではなかった。けれど、村上への恋心はそこで終わったはずだ。それは去年、再会した彼が独身に戻っていても同じことだ。
 今、アタシが村上に対して抱いている気持ちはそれとは違うもののはずだった。

 気がつくと、アタシは半ば無意識に携帯電話を弄っていた。
 現在使っている携帯電話は去年買い換えたソフトバンクの810SHだ。いずれ、日本でも発売されるというiPhone発売まで持ち堪えるつもりだったのだけど、それまで使っていたのが不具合が多くて換えざるを得なかったのだ。
 村上が買ってくれた機体は父の事件のときまで使っていた。
 父の告発をめぐって仲違いをしたとき、アタシは村上を思い出させる品物の大半を処分してしまっている。一緒に写った写真を収めたアルバムもそうだし、数少ないけど買って貰った服やアクセサリもそうだ。
 けれど、携帯電話だけは理由が違っている。どういうわけだかアタシの番号がマスコミに知られてしまい、そっちにまで取材の電話が掛かるようになってしまったのだ。打てた対抗策は速攻で解約することだけだった。
 新しい携帯電話は祖父が経営する会社の名義のもので、料金を気にしなくてよくなったのはありがたかった。
 しかし、急な解約は一つだけ取り返しのつかない副作用を残した。メモリのバックアップをとっていなかったので、登録していた番号を全て失ってしまったのだ。
 その中には亮太の携帯電話の番号も含まれていた。アタシがどれだけ彼のことを懐かしんでも連絡をとれないのは、アタシが身の回りのゴタゴタから解放された頃に亮太が二度目の引越しをしていて住所が分からなくなったことと、それが理由だった。
 何度も折り畳みを繰り返しながら、もし、亮太と連絡が取れたら何を話すだろうと考えた。
 けれど、具体的なことは何も思い浮かばなかった。あれから三年近くが経とうとしている。アタシの身にいろんなことがあったように、彼の身にも三年分のいろんな出来事が起こっているはずだ。亮太にとってアタシとの付き合いなど遠い昔のことになっているかもしれない。逢って話がしたいと思っているのはアタシだけかもしれない。
 魂を吐き出すように深く息をついた。
 切ないことだけど過ぎ去った時間は取り戻せはしないし、起こったことは全て取り返しなどつかないのだ。アタシがどれだけ自分を責めても村上を恨んだ事実を消せないように。
「――ごめん、待たせたね」
 向坂がエレベータを降りてアタシのところに駆け寄ってきた。そんなに待ってもいなかったし、走るほど遠くもないのだけど、アタシの周りはアタシを待たせることに呵責を感じない男ばかりなので(その筆頭は村上)向坂の反応は新鮮だった。
「そがん待っとらんよ」
「ならいいけど。あれっ、電話掛かってきたの?」
「えっ?」
 向坂の視線はアタシの手元に注がれていた。
「……ううん、違う。そろそろ掛けてみたら繋がるかなーとか思うたっちゃけど、考えたらこっちから掛けてやる必要はなかかなと思って」
「まあ、そうだろうね。俺としては志村が潰れてないか、気になるけど」
「保護者じゃないとやけん、気にせんよ」
「そうだね。じゃ、行こうか」
「オッケー」
 小さなため息と共に携帯電話をポシェットに放り込んだ。誰に向かってのため息かは自分でもよく分からなかった。  
 
 

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