「Change the world」

第十章

 アタシたちは向坂が訪ねた先生の授業が終わるのを、秋月中の校長室で待っていた。
 学校のあらゆる施設の中でも、アタシにとっては問題を起こしたときしか出入りした覚えがないのが校長室だ。三人の中で優等生だと思われるのは向坂だけなので、おそらく志村はアタシの同類だろう。現に志村はどうも落ち着かないと言っていた。
「よう、永。まだ先生ってこねえの?」
「そろそろだろう。もう授業も終わることだし」
 いかにも退屈そうに言う志村に、向坂が何事もなかったかのように答える。
 こうやって見てると二人は親友――だろう、多分――というよりも兄弟のように見える。落ち着いて物静かな兄とやんちゃな弟。どこかの漫才師ではないが、弟のほうが発育が良くて逆転現象を起こしている兄弟は決して珍しくない。
 けれど、時折、志村のほうが世慣れた感じに見えて年上のように思えることもあるのが不思議な感じだ。
 向坂が腕時計に視線を落としたのとチャイムが鳴ったのはほぼ同時だった。開け放たれた窓からガラガラガラッと一斉に椅子を引く音が入り込んでくる。静かだった校内の物音がボリュームのつまみを回したようにスッと大きくなる。何人かで上の階の廊下を走るドタドタという音が響く。
 しばらく待ってるとガラガラっと音がしてドアが開いた。
「――ああ、あなたが永一くんねぇ?」
 年配の女性は入ってくるなり、まるで自分の孫が訪ねてきたかのように表情を緩ませた。いかにも学校の先生らしい化粧っ気のなさとシックなダークブラウンのワンピース。アタシの中学のときの担任もこんな感じだった。
「横河先生ですか?」
 向坂は立ち上がって小さく礼をした。アタシも志村を促してそれに続いた。いかにも面倒くさそうにしかめられた顔は無視。
「この度はいきなりお邪魔してすみません」
「あらあ、啓子さんから聞いとった通りやねぇ。歳のわりにえらいしっかりしとるって」
 横河先生の声のトーンが思いっきり跳ね上がって、向坂は見た目ではっきり分かるほどたじろいでいた。
 肘で志村をつついた。
(……啓子さんって誰ね?)
(永の祖母ちゃんの名前)
「その――大伯父が大変お世話になったと聞いてます。ありがとうございました」
 向坂が言うと横河先生はパタパタと手を振った。
「なん、お礼ば言うとはこっちんほうよぉ。お墓参りに来てくれるとか、ぜんぜん思っとらんかったけんねぇ。――ばってん、不思議かもんよねぇ」
「何が……ですか?」
「ほら、形の上では衛さんは永一くんのお祖母ちゃんのお兄さんやけん、そがんふうにお礼ば言うてくれるとが正しかとやろうけど、私たちからするなら、遠くからわざわざ衛さんば迎えに来てくれらした感じもするとよ。お礼ば言うとはこっちかもしれんって」
「はあ……」
「そっちのお二人は?」
 先生がアタシたちのほうを見た。向坂はアタシのことを九州在住の志村の従妹だと紹介した。話がややこしくなるのが嫌だったのだろう。確かに昨日知り合ったばかりの女ですとは言いにくい。
 先生は志村に向かってニッコリ笑いかけた。
「こげん田舎でビックリしたやろぉ? せっかく来たとに、若か人が楽しむごたるところは何もなかもんねぇ」
「ええっと、まあ、そう――ッ!」
 バカが、肯定する奴がどこにいる。満面の笑みで志村の顔を覗き込みながら、脇腹を指先で軽くつねりあげた。
「いえ、秋月に来るのは久しぶりなんで。ずっと前から、機会があったら案内するって約束してたんです。――ねえ、マサハル兄ちゃん?」
「……そうそう。キレイだって聞いたもんで」
「あら、もうちょっとで桜も咲くとやけどねぇ。そしたら、本当にキレイなんよぉ」
 恨めしそうな視線も無視。
 納骨堂には昼休みと先生の受け持ちの授業がない五時限目に連れて行ってもらうことになって、それまでの間、アタシたちは近くで時間をつぶすことになった。
「あの、すみません――」
 向坂が言った。出て行きかけた先生が振り返った。
「なん?」
「さっき、僕のことを祖母から聞いたとおっしゃいましたよね。祖母とは面識があるんですか?」
「啓子さん? ああ、何度かこっちに旅行で来らしたことがあるとよ。それにそう……ここ何年かの衛さん宛ての手紙は、私が読んであげよったけんね。ほら、衛さんは白内障も患うとらしたけん、自分では読まれんかったとよ」
「そうですか……」
「衛さんのことば知らせたときに、啓子さんも亡くなったって聞いたときはビックリしたとよ。私たちは啓子さんのご家族はまったく知らんかったし、向こうもそうやったろうけんね」
「そうですね。……祖母は、一人で?」
「いつも一人でフラッと。だいたい、いきなり衛さんに電話があって「明日から行くけど泊めてもらって良いか」って感じやったねぇ。「駄目って言っても聞かんのだから良いかも何もあったもんじゃない!!」って衛さんがブツクサ文句言いよらしたけど」
 向坂は微妙な表情をしていた。
 アタシには彼の祖母のことは何も分からないので、それがごく普通の行動であるのか、あるいはそうでないのかなど知る由もない。ただ、志村の表情がいかにも意外そうだったので何か違和感のようなものがあるのだろうとは思った。
「祖母は毎年、来てたんですか?」
「そういうわけやなかけど。都会の学校の先生やけん、そがんしょっちゅう休みはとれんかったとやろうね。それでも三年に一回くらいは来よんさったよ」
「最後に来たのは?」
「一昨年のちょうど今ごろ……そうそう。春休みの児童映画上映会んとき」
「児童……映画上映会?」
「甘木の教育委員会主催のイベントでねぇ。去年から著作権がどうとかいうてせんごとなったとやけど、それまでは毎年、春休みに市民会館で子供向けの映画ん上映ばしよったとよ。それば一緒に見に行ったけん、間違いなかよ」
「祖母が映画を!?」
「最初は誘っても来んかったとに、その日になって見に行くって言わしてね。よっぽど暇やったとかなって思いよったとやけど、映画が終わったらわんわん泣かすもんだけん、こっちがビックリしたとよねぇ」
「えっ、あの祖母ちゃんが!?」
(いや、それはあんたの台詞やなかろうよ)
 思わず志村を睨んだ。しかし、バツが悪そうな顔をしながらも、志村はそれが不可思議で納得し難いことなのを隠そうともしなかった。そして、それは向坂も同じだった。
 二人がフリーズして会話が途切れた。
「映画は何やったとですか?」
 何となくその言葉の後を続けた。横川先生は映画はディズニーの<アラジン>だったと答えた。
 授業開始のチャイムが鳴って、先生はアタシたちの反応を訝りながらも「また後で」と言い残して校長室を出ていった。そこにいる理由がなくなったので、アタシたちも校長室を後にした。

 アタシたちは校庭の隅、杉の馬場通りに面した塀の裏側に沿って秋月城跡のほうに歩いた。
 主要な建物は当の昔に焼失してしまっているらしいが、今でも城門や櫓の一部などが残っていて、今は城というよりは昔の武家屋敷跡といった趣きだ。鬱蒼とした緑と苔むした石垣に囲まれていて、時折、思い出したように吹く風はひんやりとしている。
 アタシの隣に志村が、後ろから向坂が着いてきていた。
「<アラジン>って、魔法の絨毯に乗って四〇人くらい子分を連れた泥棒の話だろ?」
「あんた、それって後ろ半分は<アリババ>やん」
 ギャグだと思っていたら志村は真面目そうな顔をしていた。アホか、こいつは。
「そんなに感動的な話だったっけ?」
 志村はため息混じりに訊いてきた。
 アタシも<アラジン>を見たのはずいぶん昔の話なので、粗筋まで覚えているわけではなかった。むしろ、アタシの中では主題歌の<ア・ホール・ニュー・ワールド>のほうが記憶に残っている。
「それ、どんな曲?」
「タイトルは知らんでも、聞いたことはあると思うっちゃけど。グラミーとか獲ったけんね」
 鼻歌でサビのところを歌ってみせた。志村は記憶を探るように眉根を寄せていたけど、残念ながら探し当てたようには見えなかった。
「ふーん。まあ、いいけど。なあ、永――」
 志村は背後を振り返った。そして、大声をあげた。
「どうしたんだよ、永!?」
 アタシもそれにつられて振り返った。
 向坂の顔は完全に血の気を失っていた。もともと血色のいい男ではなさそうだが、それにしても今にも倒れてしまいそうだ。アタシと志村は慌てて彼のところに駆け戻った。
 口々に大丈夫かと問いかけるアタシたちに、向坂は力のない笑みを浮かべてみせた。
「……なんでもない。ちょっとな」
「ちょっと何だよ。こいつの運転が荒っぽくて車酔いでもしたのかよ?」
 ホントにぶん殴るぞ、こいつ。
「あんたねえ、車降りてこんだけたって、今ごろそがんことなかろうもん。ねえ、向坂くん、ホントにどうしたと?」
「いや、本当になんでもないんだ。すぐに治る。――さ、行こうか」
 向坂はそう言って、もう一度力なく笑った。
 

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