OVER番外編

天蓋の花 1


祖母の人生について俺が知っているのは、ほんのわずかな事実だけだ。
教師であったこと、離婚していること、俺の母親という娘が一人いること。
生まれた季節も死んだ季節も、むせかえるように暑い、夏であったこと。
ただ、それだけだ。


永一 えいいち ! どうしてたおまえー、うわ久しぶりだなあ!」
病院の廊下に、場違いなほど陽気な声が響きわたる。
驚きのあまり抱きつかれたまま硬直していた俺だったが、隣にいた志村の反応は早かった。
「なんだおい、あんた!」
背の高い志村が猫にするように襟首をつかんで引き剥がした男は、日に焼けた顔をした40代半ばの――
「とうさん」
「とう――え? 父さん?」
仰天した顔で手を離し、志村のやつがその男をまじまじと見たのも無理はない。
斜めになでつけた前髪はメッシュ入りで、耳には紅い石のピアス、白い麻のスーツを着崩して、開けた胸元には謎のペンダントが光っている。
やや日本人ばなれした彫りの深い二枚目顔は、若いころはそれなりにチヤホヤされたかもしれないが、今となっては売れそこなった3流タレントのような半端な雰囲気で。
どう控えめに表現しても、堅気ではなさそうな、胡散臭いとしか言いようのない中年男。
ところが困ったことに、これが俺の実の父親なのだった。  


「お、友達か! どうもどうも、永一が世話になってるねえ」
呆然としたままの志村の手を勝手に握ると、ぶんぶんと上下に振りまわし、笑顔をふりまく。
こうして実際に顔を合わせるのは4年ぶりだが、詐欺師に特有の愛想のよさは健在だ。
「父さんも、……元気そうで」
よく言われることなのだが、俺はどうやら、いつも物凄く平然としているように見えるらしい。
この時も傍目には冷静に見えていたようだが、それは何も落ち着いているわけではなくて、表現力というものが欠けているせいなのだ。
事実この他人行儀な挨拶も、べつに気の利いた皮肉のつもりではなく、いったい何を言ったらいいのか、本当に、心底分からなかったのだ。

「まさか知らせないわけにもいかないだろう」と思い立って、この父親に祖母の状態が悪いことを書いた手紙を送ったのは、二ヶ月前のこと。
住所不定の父親の手元へ届くのは、いつになることか。
届いたところで、祖母と折り合いが悪い――というより一方的に嫌われている――この父親が、わざわざ姿を現わすものだろうかと、あまり期待もしていなかった。
それなのに、まさかこのタイミングでやって来るとは。


「わああああん!」
病室の中から悲鳴のような叫びが聞こえて、俺と志村は顔を見合わせた。
「……なに? 今の声、母さんか?」
そう言いながら病室へ足を踏み入れようとする父親の肩をつかんで引き止めたのは、俺ではなく志村だった。
「あのさ、もうちょっと――二人にしといてやりなよ」
低く、きっぱりとして、だけど囁くような。それは不思議に優しい口調だった。

本当は、俺が言ってやるべき言葉だったのだと思う。
頭の片隅でそう思いながら、現実の俺は、何も言えずに動けずに、ただ壁に背をあずけて立っているだけだった。
悲しみではなく、疲れが脳を痺れさせていた。
死の匂いのする場所で、死にかけた人間を見続けることにくたびれて、涙のひとつも出てこない。

――ああ、疲れたな。

壁に寄りかかったまま溜息をついて、目を閉じた。
志村が心配そうにこちらを見ている気配がしたが、そんな気遣いは必要なかった。
ようやく終わりが訪れたことに、俺はホッとしていたのだ。
何年も二人きりで暮らして、世話になった、俺にとってはただ一人のかけがえのない家族であったはずの、祖母が。
ひどいありさまで苦しみつづけ、そのくせ最後の最後まで、俺には一言の弱音も吐かなかった祖母が。
ほんの数分前に、息をひきとったばかりだというのに。
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