OVER

Scene5

松下和樹という教師の略歴に、あの事件との関連は一つも見出せなかった。

出身地、卒業した大学、前の職場である都内の私立高、ひととおり集めた情報には、正春と重なるようなものは何も無い。

瀬戸先生に聞いたところでは、教師の間での評判も、とりたてて良くも悪くなく、無口で目立たない人物らしい。
一年間、授業を受けていた俺自身の記憶も同様で、とくに印象的なことは何も無かった。
思い出せるのは、冷たそうな印象を与える、シルバーの眼鏡のフレームくらいだ。
個人的な雑談をすることもなく、情熱的な授業を展開するわけでもなく、俺の斜め前の席だった寺田亜紀などは、松下の授業となると、よく居眠りしていたものだった。


「あんた、ちゃんと出汁とって味噌汁つくるわけ? うわヤダ、そんな男子高生、絶対イヤ!」
小鍋を覗き込んで、母親が顔をしかめた。

「いいから、あっちで座っててくれ」
台所と引き戸で仕切られた居間を指して厳しく言うと、母親は「はあい」と素直に返事をして、フラフラと頼りない足どりで戻って行く。まだ酔いが醒めていないらしい。
何度目かの溜息をつくと、母親と自分、二人分の夕食をつくらなくてはと、冷蔵庫を開けた。


「あ、おいしーい。こういう地味ーなゴハンていいわよねえ」
煮物をつつきながら、母親が言う。
服を着ろと言うと窮屈でイヤだとゴネるので、祖母の替えのパジャマを出して与えたところ、文句を言いながら、ようやく袖を通した。
「ねえねえ、テレビ見たい。つけて」だの「あったかいお茶のみたい。お茶いれて」だのという注文を連発し、俺は黙々とそれに従った。
実家へ帰ってきた娘というのは、こういうものなのかもしれないが、甘える相手が間違っている。
「……母さん」
箸を置いて、俺が口を開くと、母親は初めて居心地の悪そうな表情を見せた。
「やめてよ、その呼び方。いっきに老け込む気がするんだけど」
呆れたセリフだが、実際この母親は、まだ三十代前半なのだ。
それなのに、化粧を落としたその顔は、この前に会った時よりも、ずっと老けたように見える。
酒ばかり飲んで、ろくな栄養をとらない、荒れた生活を送っているせいだろうと思う。
現住所がどこなのか、今は何によって生計をたてているのか、祖母は娘の顔を見るたびに厳しく問いただしていたが、俺は聞いてみようと思ったこともない。

子供のころは、この母親に連れられて逃げるように夜中に町を出ることなど、日常茶飯事だった。
おかげで一度は入学した小学校にも通えなくなり、夜逃げした町へ戻るのを嫌った母親が転校手続きを放置したため、そのままになってしまった。
自分の子供が自分の名前さえ書けないことを、いったいどう思っていたのだろうか。
何度目かのトラブルで、母親が瀬戸先生に助けを求めた時に、俺が学校へ通っていないことを知り、どのような手段を使ってか、小学校へ編入させてくれた。
瀬戸先生には、感謝している。
母親は、困ったことがあると祖母ではなく瀬戸先生に頼り、結局なにひとつ自分では解決してこなかった。

「携帯に、何度かメールと留守電を入れておいたと思うけど、お祖母さんが……」
「え? なに? 連絡くれてたの? ごめん、解約しちゃったー」
あっけらかんと言われ、俺は全身から力が抜ける思いだった。
「どうして?」
「え? どうしてって解約? ちょっとイロイロ面倒なことがあってさあ。あ、新しい電話番号教えておくからね」
悪びれもせずに言うと、バッグを手元に引き寄せて、中身を掻きまわし始める。
「お祖母さん、入院してるんだ」
「……え?」
母親の動きが、ぴたりと止まった。
「子宮癌で、手術は先月した」
「うそ」
子宮の癌は、部位によって二つに分けられる。子宮頸がんと子宮体がん。
子宮口付近に出来るものが「頸がん」で、奥の子宮体に出来るものが「体がん」だ。
どちらの癌も、早期の発見であれば治療は可能だという。
祖母は子宮体の内膜の癌で、風邪も滅多にひかないような健康体であったことから、不調に気付きながらも我慢を続け、病院へ行くのが遅れてしまった。
結果として、それが全てを決めてしまったことになる。

「先週、病理の結果が出た。治療にもよるけど、たぶん長く生きられないだろうと思う」
医者には六ヶ月くらいと言われていたが、祖母の病気すら知らなかった母親に、そこまで告げるのは、ためらわれた。
俺と一緒に病理検査の結果を聞いた祖母は、気丈にも抗がん剤での治療を希望したが、俺自身は今の祖母に治療に耐える体力があるかどうか疑問だった。
場合によっては、もっと寿命を縮めることになるかもしれない。

「……どうすればいいの?」
母親は、はっきり分かるくらい青ざめて、震える声でそう言った。
それを聞きたいのは、俺のほうだ。
だけど、そう言って当たり散らしたくなるほどには、俺はこの人に何の期待もしていない。

「病院に顔を出してやって」
それだけ言って、食器を下げるために立ち上がる。
背後で「だって」という呟きが聞こえた。
「あたし、あの人キライだもの。あっちだってそう。あたしが今ごろ行ったって、嫌な顔されるだけじゃない」
母親を振り返ると、その向こうのテレビの画面が目に飛び込んできた。
写真を引き伸ばしたと思われる、中年女性の荒い画像。
未解決事件をとりあげる番組らしく、「失踪から8年」というキャプションが付いている。
「当番組では、視聴者の皆様からの情報提供を……」
アナウンサーはそう呼びかけるが、失踪から8年も経って、当時の目撃証言などを集めるのは不可能だ。
人はたいていのことを忘れていく。忘れられないのは――

「永一、どうしたの?」
画面を食い入るように見る俺に、母親が心配そうに問いかけた。
我に返って、母親の、子供のように不安げな顔に目をやった。
「……なんでもない。とにかく、病院には行ってやって。嫌な顔をされるかもしれないけど」
俺は馬鹿だ、と思った。
「死んだら、嫌な顔もしてもらえなくなる」
ようやくそれだけを言って、背を向けた。
母親は何も答えなかった。

俺は、馬鹿だ。
正春との思い出に対する感傷的な気持が、ずっと目をくもらせていた。
教科準備室で見た、松下のファイルを思い出す。
関連記事まで丁寧に集められ、整理された、あのファイル。

何年もたって、事件を忘れられない者がいるとしたら。
それは、被害者の遺族に決まっているじゃないか。


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