OVER
Scene4
病院に寄って祖母を見舞い、地元のスーパーで買い物を済ませて家へ帰ってくると、七時を過ぎていた。
外灯にぼんやりと浮かび上がる、梅の木が一本あるだけの小さな庭に、平屋建ての小さな家。
「安斎」という表札が掛かったこの家に来て、4年が経つ。
そんなに長いこと同じ町に住むのは初めてで、いつのまにか、この祖母とのぎこちない二人暮しが、ずっと続くような気がしていた。
この夏に、祖母が子宮癌で倒れるまでは。
容態の悪くなっていく祖母を見ながら、この人に死なれたら、この穏やかな生活も終わるかもしれないと、自分の身の振り方の心配をする。
毎日のように病室へ顔を出しながら、もう少し、なんとかしてあと1年もってくれないかと、祈るような気持で痩せた寝顔を見続ける。
瀬戸先生は間違っている。
俺は自分のことしか考えていない。優しかったことなど、一度もない。
ポケットから家の鍵を取り出すと、錆びて色を失った三日月の形のキーホルダーが鈍く光った。
(失くしちゃダメだから、鍵はこれにつけておこう)
正春はそう言って、温室の小さな鍵をくれた。
正春にどんな思惑があったのか、今はもう分からない。
就学年齢に達していながら、学校へ通わず、読み書きすらできなかった俺に、辛抱づよく文字を教え、本を与え、ここではない世界があることを教えてくれた。
やわらかな陽射しの入る温室で、飽きもせずに何時間でも一緒に過ごした。
俺が南極の写真がたくさん入った本を気に入って、何度も広げていると、「そんな寒いところは嫌だ」と言って顔をしかめた。どうせ行くなら、南がいい。大きくなったら、南へ一緒に行こう。
あそこがいい、ここへ行こうという話をするのが、正春は好きだった。
いいよ行こう、と子供の俺は答えた。
南極を見てみたいけど、正春が寒いところが嫌いなら、うんと綺麗な花の咲く、天国のような島でもいい。
そんな夢のようなやりとりを本気にしていたのは、子供の俺ではなく、正春のほうだったのかもしれない。
当時の俺は、正春について何ひとつ知らなかった。
正春の家は地元で唯一の総合病院で、非常に裕福な家庭であったこと。
正春は一人息子で、入学した医大を休学中であったこと。
家系に自殺者が異常に多く、長男であった正春の兄も、数年前に不審死をとげていたこと。
それらは、火事から何年も経って、当時の週刊誌の記事から得た知識だ。
ただの火事であれば、それがたとえ一家焼死であろうとも、そこまで世間を騒がせる話題にはならなかったはずだ。
焼失した温室から三人分の子供の骨が発見されたことから、事態は急転し、付近で起きていた三件の失踪事件と関連づけた捜査が始まって、正春は重要参考人として手配されていた。
焼け跡からは両親と祖父母の、四体分の遺体しか確認されなかったからだ。
そして現在にいたるまで、正春の行方は不明なままとなっている。
(遠くへ行こうと思うんだ)
ある日、正春はそう言った。
一緒に来ないか? と誘われ、俺は「いいよ」と即答した。
どうせ母親は何週間も帰って来ていなかったし、少しくらい留守にしても構わないだろうと思ったのだ。
ちょっとした旅へ誘うような正春の言葉には、気負った様子も、思いつめた様子もなかった。
(明日のこの時間においで。何も持ってこなくていいから)
(ふたりで行くの?)
そう尋ねたのは、正春の家族が一緒だとしたら俺が行くのはまずいだろうという、子供らしからぬ気遣いからだったのだが、正春は奇妙な返事をした。
(ふたりだよ。他の子たちは、もう、連れて行けなくなっちゃったから)
その約束が果されなかったのは、その日に限って、母親が帰って来てしまったせいだった。
何日も家を空けたことの償いなのか、たくさんの菓子や玩具を手に、母親は帰ってきた。
そんな気まぐれはいつものことで、母親の機嫌は、いつも付き合っている男しだいだった。
母親が上機嫌で酒を飲んで眠ってしまってから、ようやく俺はアパートを脱け出して、高台にある正春の家へ走った。約束の時間には、だいぶ遅れてしまっていた。
あの夜のことは、よく覚えている。
三月になったばかりの、風のない夜だった。誰とも擦れ違わず、町はまるで無人のようで、月だけが明るかった。
息をきらせて正春の家へ辿りつくと、火の手が上がっていた。
サイレンが聞こえ、大人たちが集まり始め、いつも静かな町は騒然となった。
焼け落ちていく庭を茫然と眺めていると、いきなり誰かに抱きかかえられた。
なんと母親だった。
「火事なんか見に来て、なにやってんのよ!」
酒臭い息を吐いて、だけど子供のように俺にしがみついて、わあわあと泣き出した。
ごめん、と俺は謝った。なかなか泣きやまない母親の頭をなでて、何度もそう言った。
こうして、俺は正春との約束を破ってしまった。
すべてを知った今であっても、正春に対する嫌悪感は不思議なほど湧いてこない。
その当時も、正春といて危険を感じたことは一度もなかった。
正春は、正常な人間と違う素振りがあったのだろうか。普通の人間と違うことを言っていただろうか。
分からない。
正春は俺の、生まれて初めての友達だった。誰とも比べようがない、特別な存在だったのだ。
――なんだ?
家の扉の鍵穴に差し込もうとした鍵が入らず、ぎょっとして手を止めた。
鍵がかかってない。
そっと引いた扉の向こうの暗闇から、呻き声がした。
まさか。
玄関に脱ぎ捨てられた片方だけの、おそろしく細いヒールの靴。
廊下に落ちているストッキング。
廊下の先には、中身が飛び出したバッグ。
派手な柄のスカート。
抜け殻を拾いながら辿っていくと、台所の床に「本体」が落ちていた。
「……水、ちょっと水のませてよ、もう」
うめき声を上げて、下着姿の母親が、床から起き上がった。
「水ちょうだいってば、早く!」
呆れて立ち尽くしていると、当たり前のように怒鳴られる。
三ヵ月ぶりの親子の対面が、これだった。
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