BACK | NEXT | TOP

●  まるで愛のような ---  ●

「貴子、起きろ起きろ」

いやに陽気な、夏生の声がした。

「寝かせておいてあげましょうよ。かわいそうだから」
「いや、やっぱりここは見ておかないと!」

そんな二人の会話が聞こえて、薄目を開けると夏の日差しが突き刺さった。
ま、まぶしい。
いつの間にか眠りこんでいた後部座席で目を覚ますと、左肩に、何故か薄い茶色のジャケットが掛けられていた。
「お、起きたか」
その上着を着ていたはずの助手席の夏生は、いつの間にかTシャツになっていて、すっかり夏仕様の笑顔を見せている。
「すみません、うとうとしちゃって……」
恐縮する私に、運転席の蒔田さんがミラー越しに笑いかけた。
「お疲れなんですよ。相川くんは人使いが荒いからねえ。どうせ土日も出勤してたりするんでしょう?」
「いえ、そんな」
当たっている。
さすが元上司というだけあって、蒔田さんは相川さんに詳しかった。
引退後にオーストラリアへ移住した人だと聞いていたので、陽気で豪快な人物をイメージしていたのだけれど、空港にあらわれた蒔田さんは、小柄で物腰の柔らかな初老の紳士だった。
夏生は彼に丁寧に挨拶をして、家族のことなどを聞き出し、あっという間に打ち解けてしまっていた。
正直なところ、夏生が世代の違う男性とまともに会話が出来るとは思っていなかったので、これには驚いた。


「このへんは国立公園なんですよ。世界遺産でもある。せっかくですから、エコーポイントくらいには寄ってみましょうかって話をしていたところなんですよ」
蒔田さんに言われて外の景色を見ると、先ほどまでの赤茶けた単調な風景から変化して、緑が深くなっていた。
どうしてもここの奇岩を見たいと夏生が言い張るので、休憩がてら寄ることにして、カトゥーンバという町へ入って行った。
「ブルーマウンテンって、ここ、コーヒーが有名なんですか?」
「いえいえ、まったく関係ないですよ。ユーカリの油分が蒸発して、山がうっすら青く見えるっていう意味ですね。まあ、今日は天気も良いことだし、そんな風に見えるかもしれません」
Blue Mountainsという街中の表示に目をとめて尋ねると、蒔田さんは笑って答えた。
どうやらこの町はブルーマウンテンズ観光の拠点らしく、大型バスが行き来して、日本人観光客もたくさん歩いている。
「貴子、これ着てろ」
車を降りると、夏生が上着を放って寄こした。
「え? いいよ暑いし」
「紫外線、紫外線」
そう唱えると、私の返事を無視して歩いて行ってしまう。
上着を手にして戸惑っていると、蒔田さんが微笑んだ。
「ああ、あんまり日焼けはしないほうがいいですよ。南極のオゾンホールの影響で、紫外線が強いんで。われわれみたいな年寄りは皮膚がんの心配なんかしませんけど、若い人はね」
蒔田さんは夏生の後姿に目をやって、「彼、優しいですね」と言い添えた。


「おお、絶景ー」
柵から乗り出すようにして、気持ちよさそうに夏生が言う。
広々とした展望台から望む風景は、確かに絶景だった。美しいとか綺麗だとか言うよりも、とにかく視界が広い。
三つならんだ奇妙な巨岩の向こうに、青くかすんだ地平線が見える。
「お、ここ改修したのかな? 前に来た時より広くなってる」
ゆっくり追いついてきた蒔田さんが、周囲をキョロキョロと見回して言った。
「息子さんたちを案内した時ですか?」
「そうそう、小学生のチビたちが土ボタルのツアーに参加したいって張り切ってて」
「お、頑張るなあ。結構歩くんでしょう?」
「それが雨が降っちゃってねえ。中止にがっかりして、また大騒ぎで」
高原の風に吹かれながら、夏生と蒔田さんが他愛ない話をして笑い合うのを、不思議な気持ちで眺めていた。
こうして知らない土地に来て、のびのびと笑っている夏生を見ると、私はこの人のことをあまり知らないんじゃないかな、という気がしてくる。
蓉子先生の話から、弟がいるというのは知っているけれど、実際に顔を見たことはなく、夏生が自分から家族の話をすることもなかった。
まるで自分の家のような顔をして、川島家にいる夏生しか知らないのだ。
よくよく考えてみたら、連絡をとるのも携帯電話かメールで済んでしまうので、実家を出て一人暮らしをしているはずの、現在の住所すら聞いたことがない。
夏生が毎日どの駅でおりて、どういう部屋へ帰っていくのか、私はまったく知らないのだ。

「そろそろ行くか。どうした貴子、腹でもへった?」
ぼんやりしているところを、夏生につつかれて我に返った。
「ああ、うん。平気。でも喉がかわいた、かな」
「じゃあ、お茶にしましょうか。カフェなら町にたくさんありますよ」
蒔田さんの提案で、休憩となった。
あとは一路、隆明さんのいる町へ向かうだけだ。

この旅の終わりまでに、夏生の住所くらいは聞いておこう、と思った。
会わなくなっても、年賀状くらいは出せるように。

BACK | NEXT | TOP
Copyright (c) 2006 mana All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-