BACK | NEXT | TOP

●  まるで愛のような ---  ●

電車の揺れに、ふと目がさめた。

顔が濡れている。泣いていたことに気がついて、自分でもびっくりした。
夢をみていたのだ。
夢の中の私はまだ子供で、昔よくそうしていたように、隆明さんと並んでピアノを弾いていた。
ジョブリンの「エンターテイナー」。楽しい曲だけれど、出だしから、子供の私の指は届かない。
私は左手の部分を両手をつかって弾き、右手は隆明さんが引き受けてくれた。
ふたりでリズムをとって、一人の演奏のように、音をつくる。
そんな遊びに、いつもいつも付き合ってくれていた……優しい人だった。

空いた車内では、誰もこちらを見ていなかった。
乗り換えの駅が近づいていたので、素早く目元をぬぐって、立ち上がる。
ここ数日、ずっと気を張っていたせいか、意識がなくなった途端、めそめそしてしまったんだろうか。
バッグに手を入れ、ハンカチを取り出そうとしたところ、指先に何か、かたい紙の角が当たった。


「これ、もらったんだ」
塚田さんが手品のように取り出したのは、夏生の名刺だった。
タイ料理店で偶然出くわしたあの夜、夏生は私がいない時に、塚田さんのところへやって来たのだという。

「……これ夏生が? あのときですか?」
塚田さんと名刺交換して、どうするんだろう。
いや、別にしてもいいけど、どうしてわざわざ……。
「あの、何か失礼なこと言いませんでした?」
小太り小太りと連呼していた夏生の口の悪さを思い出して、心配になってきた。
すると、塚田さんはにっこり笑った。
「いや、ぜんぜん。すごーく礼儀正しく、私こういう者ですが、いつも貴子がお世話になっております、みたいな挨拶されたよ」
「なんですかそれ……」
まるで身内のような挨拶を。
「だからさ、つまりそうやって名乗って挨拶することで、で、オマエはいったい何者なんだと、そう言いたいわけなんだよね、きっと」
「はあ」
「だから、こちらも名刺を渡して、ご挨拶しておいた。ちょっと悪戯心がおきて、こちらこそいつも親しくさせていただいてます、とか言っちゃったんで気になってたんだよねえ。ごめん。あとでケンカにならなかった?」
「いいえ、そんな……ぜんぜんそんな関係では。すみません、きちんと説明しておきますから」
「おれはいいけど、彼がすごくショックを受けてたみたいに見えたからさ、悪いことしたなあ」
塚田さんは、そう言って、すまなそうに笑った。

そんな昼間の会話を思い出しながら、指先に触れた、その名刺を取り出した。
塚田さんに「ください」と言って引き取った、夏生の名刺。

誤解だ。
塚田さんが思っているようなことじゃない。
夏生が私を気に掛けるのは、好きだからじゃない。
だけど。でも。
真面目くさった顔で、名刺を差し出す夏生を思い浮かべると。
なんて馬鹿なんだろうと、あきれてしまうのに。
胸の奥に、なにかが降ってくるような気がするのだ。
泣きたいような、笑いたいような、どこか痛いような、はっきり名づけられない、何かが。

夏生に謝らなければ、と思った。
子供のころに殴ったことではなく、隆明さんの代わりをさせ続けてしまったことではなく、たった今この瞬間まで、私がしようとしとしていたことを。

自分が受けとめられないものだから、何も感じていないふりをして。
私は、隆明さんが生きていたことを、夏生ひとりに押し付けようとしていたのだ――。

BACK | NEXT | INDEX
Copyright (c) 2006 mana All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-