水上奇譚

10話「予感」


「……あんた、やっぱり策士だな」

眉を寄せた、不機嫌そうないつもの表情で、比留間克哉が吐き捨てるように言った。
大賀が一時的に借り受けたこの古いマンションの一室は、細長いつくりの3LDKで、居間となる狭いスペースには、小さなダイニングテーブルとソファーのセットが押し込まれている。
テーブルを机がわりにPCを置き、会社から転送させた自分宛のメールに返信を打っていた大賀は手を止めた。

「誰が何だって?」

見ればソファーを占領した比留間は膝の上に新聞を広げ、ローテーブルの上にも床にも雑誌や新聞紙を散乱させている。仮住まいの大賀がわざわざ購読の契約をするわけもなく、それらは全て比留間が持ち込んだものだ。

「あんた以外の誰がいんだよ。こんなとこに隠れてるうちに世間は勝手に忘れてくれるし、会社じゃ、お偉いさんが都合よく何もなかったことにしてくれてるしさ。よく出来てるもんだよな。本人は指一本、動かしてないってのに」

舌打ちして新聞を放り投げ、また違う雑誌を床から掴み上げる。
先ほどから比留間が熱心に読んでいるのは、記事そのものではなく、どうやら広告であるらしい。掲載された広告をチェックしては、携帯電話を持つ指を動かし、また違うページをめくっては、何やら小さく悪態をついている。 比留間が取り上げた雑誌の下から、食べかけのスナック菓子の袋がのぞいていた。
気に入らないか、とは大賀は問いかけなかった。
口の端だけで笑い、再びモニターへ視線を戻す。
意味のない、駆け引きめいた会話をするほど互いを知らないわけではない。比留間は、気に入らないに決まっている。
暴漢に襲われて、何の手も打たない大賀が気に入らない。
知佳子の企みに、何の報復もしない大賀が気に入らない。
津田の会社にまで入っておきながら、何の悪事もはたらかない大賀が気に入らない。
なにより、地味な仕事に精を出し、会社員として平穏な日々をおくる大賀が、気に入らなくて気に入らなくて、たまらない――


大賀が負傷した夜から、三日が経っていた。
顔の腫れは引き、外側から見える部分はかなり正常な状態に戻っている。まだ体中のあちこちが痛み、動作はぎくしゃくとして足取りも覚束ないが、路上に放り出されて3階のこの部屋まで二時間をかけて這って戻ったことを考えれば、驚異的な快復と言ってもいいかもしれない。
この三日というもの、比留間は足しげくこの部屋へと通っていた。
とりたてて人手が必要なわけではない。他人の手を借りたがらない大賀は、たとえどれほど時間がかかろうとも、自分で立ち上がり、自分で便所へ行き、自分で傷の消毒をする。比留間は黙って大賀の様子を眺め、頼まれてもいない食料を買って来ては、置いて行く。
調べるように言われていた知佳子の行方について短い報告をすることもあったが、電話で済む程度のやりとりに、わざわざ足を運ぶのは、やはり自分の目で大賀の様子を確認したいからなのだろう。
いつもとは違う比留間の行動を、大賀は咎めもしなければ、特別に礼も言わなかった。

「じゃ、俺そろそろ行くわ」
上着を片手に比留間が立ち上がる。いつもそうであるように、「どこへ」行くのかまでは口にしない。
「おい、歩けるようになったからって、あんま外出んなよ。あぶねえから」
保護者のようなおかしなセリフであるが、言っている本人はいたって真剣だ。
比留間は大賀を襲った暴漢――少年たちではなく、最初の二人組のほう――について、知佳子と関連があるのではないかと言い続けていた。大賀の反応の無さに業を煮やした知佳子が、差し向けて来たのではないかと。
「このままにしておいていいのかよ」と噛み付いてくる比留間に、大賀はあっさりと首を振った。
「放っておけ」
「なんで」
大賀は再び首を振り、説明もせずに話を切り上げた。
知佳子ではないだろう、と大賀は見当をつけていた。物理的に大賀を痛めつけることが、彼女の目的とは思えない。

知佳子の思惑については、これまでに大賀は何度も考えていた。
動機はともかくとして、知佳子が望んでいたのは、大賀の社会的な抹殺なのだ。
わざわざマスコミを巻き込み、今は亡き夫の名を貶めてまで一大キャンペーンを張ろうとした目的は、大賀尚人という人間の過去と本性を暴き、世間に知らしめることにあったはずだ。
残念なことに、そして大賀にとっては幸運であったことに、その目的はかなわないまま、事態は自然に収束へと向かっている。
「策士だな」などと比留間は嫌味を口にするが、それは比留間の思い込みにすぎず、津田に関するスキャンダルがすでに過去のニュースになりつつあるのは、日ごろテレビで顔を見かけるわけでもない一実業家に対する世間の関心が、そもそも最初から低いためだ。
ましてや、まったく名も無い会社員である大賀が過去にどのような非道をはたらこうとも、ニュースとしての価値は無いはずなのだ。

すでに昨日あたりから、津田の名前は報道されなくなっていた。
今日も大賀は朝からずっとテレビをつけていたが、めまぐるしく変わる凄惨な殺人事件と芸能ニュースが繰り返されるだけで、津田の名前は一度もワイドショーに登場していない。
(それでも)
大賀は、決してゼロではなかった可能性を考える。
それでも、何事もなければ、あるいはその記事は陽の目を見たかもしれない。
過去の大賀の所業が、活字になって世間に知らされたかもしれない。
大賀のような、ある程度のキャリアを重ねた人間にとっては、現実に殴られるよりも余程つらい、社会的制裁という名の罰を受ける破目になったのかもしれなかった。

しかし現実には「社員A」の「衝撃の過去」を載せるはずであった週刊誌は、大物芸能人夫婦の突然の離婚を報じることになり、新しくもないニュースに誌面を割く余裕は無くなったのだ。
知佳子の狙いは悪くなかったのだが、自分の力ではコントロールできない手段を選んだところが失敗だった。
(ばかばかしい――)
皮肉なことに、世間の耳目を集めたのは津田のスキャンダラスな性癖の部分だけであり、大賀が頭を低くしているうちに、嵐は通り過ぎようとしているのだ。
何より馬鹿ばかしいと大賀が思うのは、この事態を自分が少しも喜んでいないことだった。

「……もしもし、香織?」
比留間が去ったことを確認してから、部屋を脱け出し、時間をかけて近所のコンビニエンス・ストアまで歩き、公衆電話から香織へと電話をかけた。
「ああ、うん。そう。携帯が壊れて……悪かった」
優しい声音で適当な言訳を口にしながら、自分は策士ではないが、いまだ用心深くはあるかもしれない、などと考えていた。
大賀を責める比留間のほうが正しいのだということは、分かっている。
結果的に計画は頓挫したものの、知佳子ははっきりと大賀に狙いをさだめて攻撃を仕掛けたのだ。何もしない、何のあてもないまま、何の手も打たずに身を隠す、などという相手の後手にまわるような行動は、今までの大賀であれば、絶対にあり得ない選択だった。
今回の出来事から大賀が得たものがあるとしたら、二つのものだ。
大賀尚人という男は、自分がかつて自分自身に信じ込ませていたような人間ではないのかもしれない、という自覚と。
そして、近い将来、その自分自身のために、ある決断をしなくてはならないだろうという、苦い予感だった。


翌日には午後から会社へ顔を出し、何事もなかったような態度で大賀は仕事の毎日へと戻っていった。
香織にも連絡をとり、週末は二人で過ごす約束をした。
あいかわらず連絡がとれないままの知佳子と、比留間の不満そうな表情が大賀の胸にわだかまっていたものの、すぐに解決できるような問題ではないのだと割り切って、考えることをやめていた。
このまま、何事もなく日常へ戻っていくのだろうと安心しかけていた矢先に、大賀は意外な呼び出しを受けた。
復帰した職場で滞っていた雑務を処理している時に、階下の受付から入った、一本の電話。

「……弟、が?」
「はい、急用だとかで、ここにお見えになっていますが、どうされますか?」

大賀は眉を寄せて、考えこんだ。
自分に弟はいない。
父親の葬式に顔も出さなかった母は、数年前に亡くなっている。
大賀が物心つく前に出て行ったという母に、特別な情を抱いたことはない。誰も教えてはくれなかったが、離婚の理由も父が片庭家の屋敷を出たがらなかったところにあるのだろうと思っていた。そもそも、あの父が結婚出来たということ自体が謎であり、母という存在を恋しく思うこともないかわりに、恨みがましい気持を抱いたこともない。
父の死亡を知らせた際には、香典が郵送され、人を介して大賀の今後について問い合わせてきた、その程度のかかわりだ。
母自身が亡くなったときには、大賀の現住所が不明なためか、息子の存在を再婚相手に隠していたためなのか、何の連絡も来なかった。
再婚相手とのあいだに出来た子供は女の子のはずで、互いに口をきいたこともない相手を妹と思うべきかどうかはともかく、弟などという存在は、この世のどこをさがしても、どのような意味においても、存在しないはずなのだ。

エレベーターを降り、1Fのロビーへ姿を見せた大賀に気がつき、長椅子から立ち上がった少年がいた。
まだ中学生くらいの、頬にニキビ跡ののこる幼い顔立ち。
おずおずとした、いかにも気まずそうなぎこちない動作で、大賀の顔色をうかがっている。
きちんとネクタイを締めた制服姿に驚いたが、その生意気そうに吊り上った細い眉には、見覚えがあった。

「……頼みがあるんだ。一緒に来てくれないか」

青ざめた顔色、切羽詰った声で、大賀の袖を引く少年は、さんざん大賀を痛めつけ、あげく道路に放り出した、あの夜の少年たちのひとりだった。

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