水上奇譚

1話「夜明けの前に」


「……なんだって?」

大賀尚人が津田の死を知らされたのは、ほかの会社関係者よりも半日ほど早かった。
4時20分。
ベッド脇に置かれた安物のデジタル時計の数字が、青く光っている。
寝るためだけに借りているようなマンションの一室へ深夜に大賀が帰りついて、ようやくベッドにもぐりこんでから、まだ二時間もたっていない。

「本当なのか? 場所は? 死因は?」
携帯電話を握る手に、力が入る。
大賀の矢継ぎばやの質問攻めに、わかんないよ、と 利章 としあき が電話口で頼りない声をあげた。
「それが、よくわかんないんだよ。電話受けたのは、うちの母さんだしさ。チカさんも動揺してたみたいで、死んじゃったって泣きわめいているだけで、なんかはっきり説明できなかったみたいだし。いま連絡待ちなんだけど、おまえなら何か分かるかと……」
「身内のおまえも知らないようなこと、ただの社員のおれが知るか」
それは実際には真実ではなかったが、動揺した大賀はそう怒鳴り返し、なんて事だと、片手で髪をかきむしった。
利章が「チカさん」と呼ぶのは、津田 敬司朗 けいしろう の妻の知佳子のことだ。
妻というよりは姉のようにいつも津田に寄り添う、知佳子のしっとりと落ち着いた雰囲気を思い出し、あのひとが泣き喚くような何があったのかと、大賀は鳥肌をたてた。
津田は一週間の休暇をとり、知佳子と二人で札幌のホテルに滞在して、休暇を楽しんでいる――はずだった。


「カリスマ社長」と呼ばれるような人物なら、はいて捨てるほど存在するのが、飲食業界だ。
大賀の見るところ、それら社長たちはどれも非常によく似ている。
たいていが熱い精神論を説き、従業員を心酔させ、実際にはコスト0円である「スタッフの献身」によって利益を上げておきながら、「人を育てる企業である」などと言い放つ――
津田敬司朗は違っていた。
外見も中身もそうだったが、仕事ぶりも非常にクールでスマートであり、誰の献身も忠誠も、自分からは要求しなかった。
「ホントいうと、おれはこの仕事がきらいでね」
酒に酔って、津田が言うのを、一回だけ聞いたことがある。
「なら、やめればいいじゃないですか」
まだ学生だった大賀は、冗談まじりにそう返した。
津田の実家は福島にある。
地元で惣菜などの中食を扱っていた零細企業を、全国チェーンの外食店を持つ総合フードビジネス会社へと押し上げたのは、他の誰でもない、この男だ。
誰もが羨む成功譚であり、大賀が津田の顔を初めて知ったのも、「フードビジネス界の若きプリンス」という、陳腐だが真実でもあるTV番組の特集を見てからだった。
洒落たメガネをかけたスーツの似合う細身の男は、こうして実物を前にしても、やり手の社長には見えなかった。正確には、大賀が頭の中で思い描くような「やり手の熱血社長」には見えなかったのだが。
「うーん……」
グラスを手の中でもてあそび、津田は困ったように呟いた。
「なまじ成功したせいで、降りられなくなったというか……」
メガネをはずして溜息をつき、因果だねえと首をふる。もしかしたら、あれは本音ではなかったか。
成功に倦んだような顔をして、それでいて津田は誰よりも成功しつづけた。
あっという間に上場し、手がける業態は20を越え、グループ企業は膨れ上がり、そして。
札幌の街角でひっそりと息をひきとったとき、会長兼CEOである津田は、まだ47歳になったばかりだった。

大賀とは、ひとまわり以上も歳の離れた男だった。
可愛がっている甥の利章の友人である大賀を気に入って、「尚人」と親しげに呼び、まるで自分の友人のように扱った。
まるで友人のように、対等に。
(……それが、悪かったのか)
いつか利用するつもりの、コネクションのひとつだと、大賀はずっと思っていた。
この世で金よりも強いものがあるとしたら、それはコネだと。
家庭の事情から18で家を出た大賀にとって、生きていくということは自分の力で食べていくということであり、利用できるものは利用し、いつも狡賢く、利口に、立ち回ってきたのだ。
それなのに。
いつか利用してやろうと思いながら、結局は普通に応募して、津田の会社の持つ居酒屋チェーンでアルバイトをして。
いつか利用してやろうと思いながら、結局は普通に面接を受け、津田の会社へ入ってしまい。
いつか利用してやろうと思いながら、会社で顔を合わせると気まずそうな表情さえする津田に、仕事上の便宜を図ってくれと要求することもできなかった。
「おまえ顔色悪いんじゃないの? ちゃんと食べてるのか?」
リラックスした服装の津田が、大賀を出迎えて、そう言った。
代官山にある津田夫婦が暮らすマンションへは、先週も顔を出したばかりだった。
最近では大賀が忙しいために訪れる回数こそ減っていたが、休日になると三人で食事に出ることもあれば、利章をまじえてゴルフに出かけることもあった。
「あー、食べてるかな。コンビ二のヘルシー弁当とか、深夜の残業中に」
「ひどい会社だな……」
「だろ」
他人事のように溜息をつく津田に、大賀は喉の奥で笑った。それきり、会社の話はしなかった。
夕食の席で、大賀が自分の結婚話を切り出すと、「おめでとう」と津田は微笑んだ。
なごやかで居心地のよい空気に、仲むつまじい津田夫婦のやりとり。
津田はやわらかそうな物腰に反して気難しい男で、会社の人間を自宅に招き入れることを嫌っていた。
大賀だけが、特別だった。
その特別の好意を失うことを恐れて、自分は最後まで、津田敬司朗の友人でありつづけてしまったのではないか。
(俺としたことが)
参列した告別式で、津田の遺影をにらみつけて、大賀は胸のうちで毒づいた。
俺としたことが、まるで良い人間みたいじゃないか、と。


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