「Change the world

第三十章

  大名の路地を縦横に走り抜けて、赤坂の中央区役所の裏辺りでようやく足を止めた。
「もう、追いかけて、きよらん……?」
 膝に手を置いて呼吸を整えようとするけどなかなかうまくいかない。いくらスタミナに自信があっても、アルコールと走りにくいブーツのハンデつきでは息が切れるのは仕方のないことだ。
 向坂は肩で息をしながら後ろのほうに目をやった。
「多分……大丈夫だと思う」
「そうね……。疲れたぁ……」
「まったくだよ……」
 二人とも吐息混じりでしかしゃべれない。
「ぜったい……アタシや、なかけんね」
「……何が?」
「日頃の行いが、悪かと。……まさか、ホントにあいつらと出くわすとか、思わんかった」
「俺もだよ。でも……行いが悪いのは、俺でもないよ」
「じゃあ、誰ね?」
「そうだな……」
 責任を押し付けあうような目で互いを見る。
「元はと言えば、志村があいつらをぶん殴ったのが原因だから、志村ってことにしよう」
「ここにおらんとに?」
「いないからだよ」
「……そうやね。賛成」
 不毛な議論に無茶苦茶な決着をつけて顔を見合わせると、どちらからともなくバツの悪い苦笑いが洩れた。
「叩かれたとこ、どがん?」
「顔には当たってない。肩の辺りを殴られただけだから大したことはないよ」
 向坂はグルグルと肩を回してみせる。その仕草が何となく子供っぽくて思わず笑ってしまう。
「よかった。――ねえ、それ、いつまで持っとうと?」
「えっ?」
 刃は畳まれていたが、向坂の手にはバタフライ・ナイフがしっかり握られたままだった。
「途中で投げ捨てようかと思ったんだけど、そういうわけにもいかないからね」
「やったら、記念に持って帰る?」
「よしてくれ、そんな趣味はないよ。――でも、真奈ちゃんのおかげで助かった」
 向坂がアタシの顔を見て笑みを浮かべた。
「何が?」
「俺の芝居に上手く合わせてくれただろ。あそこで真奈ちゃんに「えっ?」とか言われてたら台無しだったからね」
 あれは向坂の意図を読み取ったわけではなく呆気に取られていただけなのだが、まあ、結果オーライだろう。
 向坂はしばらく迷って、バタフライ・ナイフを路肩の側溝の蓋の間から溝に落とした。
「さて、これからどうする?」
「どこかの店でしばらく隠れとったほうがよかっちゃない?」
「俺はもう帰ったほうがいいような気がするけど」
「また、その話蒸し返す気? あと一軒って約束したやん」
「へいへい」
 肩をすくめる――それでも表情は笑っている――向坂を引っ立てて、大名の路地に戻った。
 大名というのは不思議な街だ。
 福岡の、というより九州の商業の中心地である天神の真裏にあるにもかかわらず、まるで時間の流れから取り残されたような佇まいを残しているからだ。車がすれ違うのも難しい細い路地、地中埋設が進まずに蜘蛛の巣のように空に架かる電線、狭苦しい土地に無理やり建てられた古い雑居ビル、老舗という名前がピッタリの小さな工場、昔ながらの店構えのままで営業を続けている商店。
 しかし、同時にこの一帯は安い賃料に惹かれて集まってきたショップやカフェがずらりと軒を連ねる場所でもある。福岡の流行の発信地は今や天神ではなく、ここ、大名なのだ。古いものと新しいものが絶妙に入り混じる混沌とした雰囲気は、他の何処でも味わえない大名ならではのものと言えるだろう。
「へえ、こんなところがあるんだな」
 向坂は嘆息した。
「お昼やったら、もうちょっと案内できるとこがあるっちゃけどね。この辺って服関係の店とかこじゃれたカフェがいっぱいあるとよ」 
「ああ、閉まってるけどそれっぽい店があるね。真奈ちゃんもこういうとこに買い物にくるの?」
「たまにね。ま、ほとんど由真のお供やけど。このワンピース、その先を曲がったところにある店で買うたんよ」
「へえ。なかなか似合ってる」
「なかなか?」
「いえ、とっても」
「嘘ばっかり」
「ホントだって」
 まあ、嘘をついているのは向坂だけではない。このワンピースが大名のセレクトショップで売られていたのは事実だけど、着るアタシの意向など完全無視で買ってきたのは由真だからだ。どうでもいいけど、試着どころかその場にいないにもかかわらず、由真が買ってきた服がアタシの身体に合わなかったことは一度もない。本人すらよく把握してないサイズを彼女が熟知している理由はハッキリ言って謎だ。
「どこか、入る?」
「いいけど……そろそろ、アルコールはカンベンしてもらいたいな」
「そうやねぇ」
 しかし、夜の大名はかつての親不孝通りが担っていたような若者の盛り場だ。
 辺りを見回してみても、この時間になっても営業しているのはカフェや居酒屋、バー、ラーメン屋といった飲食店くらいしかない。ラウンドワンでの勝負と全力疾走で身体を動かしたといっても、空腹になるようなことはいくらアタシでもない。向坂は尚のことだ。
「じゃあ、カラオケは?」
 あまり期待はせずに訊いてみた。案の定、向坂は渋い顔をした。
「行ったことないんだよな」
「ホント?」
「嘘ついてどうするんだよ。歌は苦手なんだ」
「えーっ、アタシ得意っちゃけど」
「知ってる。観客でいいなら付き合うけど」
「それじゃつまらんやん。あーあ、向坂くんの歌、聴きたかったとに」
 仕方ない。もう十一時を過ぎているのでそんなに長くはいられないけど、国体道路沿いのアップルストアの二階にスターバックスがある。
 西通りまで戻って南へ歩く。その南端が面しているのが国体道路だ。
 ただし、この辺りの数百メートルのケヤキ並木の部分にだけはけやき通りという別名がある。この時間ではあまり意味がないけど、昼間は生い茂る葉っぱが作り出す緑のトンネルの心地よさを満喫することができる市内でも有数の散策路だ。
 基本的にはややお高めのマンションが建ち並ぶ住宅地なのだけど、六本松のほうに緩やかに登っていく道沿いには洒落た店も結構多い。亮太はその佇まいを見て「スケールを小さくした原宿の表参道みたいだ」と言っていた。行ったことのないアタシには、その喩えがあっているのかどうか分からないけど。
 アップルストアの横の狭い階段を上がって、スターバックスの店内に入った。アタシはいつものようにラテのエクストラショット追加。向坂はソイラテ。店内には数組の客がいたけど、もうかなり粘っていそうな女子四人組が少し騒いでいるだけで後は静かなものだ。
 国体道路を見下ろせるテラスに腰を下ろした。
 それからしばらくは取り留めのないことを話した。水炊きの席でアタシがあぶれる前に話題になった九州のインスタントラーメンを送ってやるために住所と電話番号を聞いたり、大学に進学したら一人暮らしを始めるというので、それなら固定電話は高くつくから携帯電話を持てと勧めたり、買ったらすぐに番号とメールアドレスを教えると約束させたり、そんな他愛もない話だ。
「あー、喉渇いた」
 苦みを増したラテはゴクゴクと飲むには向かない。仕方ないので喉を湿らせる程度にゆっくりと口をつけた。
「そりゃそうだよ。さっきからノンストップだからね」
「ふん、向坂くんがぜんぜんしゃべらんけん、アタシが一生懸命しゃべりよるとやん」
「確かにそうだね」
 むくれるアタシに悪かったと言い残して、向坂はトイレに立った。
 独りになると、急に自分の周りの温度が下がったような錯覚に捉われた。
 二つ向こうのテーブルのカップルの会話が耳に入ってくる。歳はアタシと違わないだろう。可愛いけどちょっと気が強そうな女の子と、大人しいけど優しい目をした男の子。映画の話をしている。ひょっとしたらアタシと別れた彼が行く予定だった試写会の話かもしれない。
 急に可笑しくなった。
 アタシは向坂に中学時代の彼氏との楽しかった思い出を、志村に別れたばかりの彼の面影を重ねていたはずだ。それなのに、いつの間にか過去の二人はアタシから離れていた。
(……やっぱり、好いとうとかな)
 声に出さずに呟いてみる。
 そうかもしれない。そうではないかもしれない。ただ、どちらであったとしても、向坂永一がアタシが出会ったことのない――そして、おそらくこれからも出会うことのない類の人間なのは間違いなかった。
 けれど、そう思うと暗澹たる気持ちになる。明日の午後の新幹線で東京に帰ってしまえば、アタシと向坂を繋ぐものはなくなってしまうからだ。
 
 

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