「Change the world

第二十五章

 あのときのことを思い出すと、今でも手足から力が抜けていくような感覚に襲われる。
 アタシが高校に入ってすぐのゴールデンウィーク。県警の薬物対策課の刑事だった父がかねてから内偵を続けていた麻薬密売グループの摘発のために数日泊り込むことになり、アタシは今住んでいる祖父母の家に預けられていた。
 衝撃的な知らせが飛び込んできたのは、アタシが風呂からあがってすぐの午後九時頃だった。タオルで髪を拭いながら下着姿で家の中をウロウロしていたら突然来客があって、慌てて手近な部屋に駆け込んだので間違いない。
 県警の警務課長と名乗った来客は、沈痛な表情で「佐伯警部補が捜査中に被疑者の少年を殴って死亡させた」と告げた。
 その時点では詳しいことは分からなかったが、逃亡する被疑者を父が殴り倒し、その拍子に被疑者が路肩の縁石で頭を強く打ったのが直接の死因とのことだった。しかし、それだけならまだ事故で済まされたかもしれない。ところが激昂した父はその後も何度も被疑者の少年を殴り続けていて、その場で駆けつけた警官――現場は親不孝通りの舞鶴交番から目と鼻の先だった――に現行犯逮捕されていた。
 殺人ではなく傷害致死になると思うと警務課長は言ったが、その違いは隣の部屋で聞き耳を立てていたアタシにはよく分からなかった。
 正直に言うと、アタシはそれを何かの悪い冗談だと思っていた。降りかかる火の粉を払うことに躊躇するような人間ではなかったけど、父は無意味な暴力はぜったいに振るわなかった。その父が我を失って人を殴り殺したなど、アタシに信じられるはずがなかった。
 県警は当初、それでも”捜査中の事故”で押し切るつもりだったという。もちろん、それは父を庇うためではなく上層部の保身のためだったが。
 それが一転して”現場の警官による暴走”という筋書きに代わってしまったのは、父の同僚だった村上恭吾が県警上層部の意向に反して「裁判では事実を証言する」と言い出したからだ。県警の筋書きを押し通すためには村上の証言は不可欠で、それが逆になった場合、県警は捜査員による傷害致死という前代未聞のスキャンダルに加えてお得意の隠蔽工作を企てたという余計なバッシングまで蒙ってしまう。そんな選択はあり得なかった。
 結果として父は傷害致死で起訴され、アタシの生活はまるで足元の地面が突然消え失せたように崩れていった。
 父と暮らしていた東区のマンション前にマスコミが殺到したのは、祖父母の家に身を寄せることで何とか避けることができた。祖父は福岡市の市議を勤めていた関係で近所の交番に顔が利いたし、そもそも家には万全なセキュリティが敷いてあるので外から干渉されるようなことはない。問題は出入りするときだったけど、典雅な博多人形のような面立ちの祖母が般若の形相で一喝して以来、マスコミがアタシに付きまとうようなことはなくなった。とりあえず、アタシの日常は事件から数日で元の静かなものに戻った。
 それでも、学校ではそういうわけにはいかなかった。
 実のところ、アタシはようやく馴染み始めたばかりのクラスメイトから一斉に無視されたり、聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせられることには覚悟のようなものができていた。アタシが悪いんじゃないという思いは確かにあったけど、それ以上にアタシがそれに負けたら父はともかく祖父母が悲しむと思ったからだ。
 しかし、事件から一週間後に登校したアタシの身にそんなことは起こらなかった。アタシは教室に入ることすらできなかったからだ。事情を察しているような顔をした担任の教師は、まるで容疑者を裏口から入らせる警官のような手つきでアタシを誰もいない進路指導室に連れて行った。
 ――悪いことは言わないから、転校しなさい。
 担任と、その時に初めて見た学年主任の女の教師は、いかにもアタシを心配しているような口ぶりでそう言った。
 ――冗談やない。なんでアタシが!?
 アタシはテーブルを叩いて立ち上がった。父がしでかしたことが理由で白眼視されるのは仕方ないと思っていたし、苛められても耐えようと覚悟もしていた。
 けれど、そこにいることすら許されないとは思っていなかった。
 剣呑な睨み合いはどれくらい続いただろうか。
 ――分かりました。でも、一週間だけ授業を受けさせてください。
 二人の態度から反論しても無駄なことを悟って、アタシは押し殺した声で言った。
 もはや意地以外の何者でもなかった。二人はアタシの意図を読みあぐねていたが「それさえさせてくれたら大人しく転校する」と申し出たら、渋々ではあったが了承した。
 それから一週間、アタシは生涯で初というほど強烈な苛めを味わった。わざとらしいシカト、聞こえよがしの陰口、面と向かっての揶揄や誹謗中傷。直接手を出されなかったのは、同じ中学から入った同級生がアタシの中学時代の武勇伝を流布していたからだろう。仕掛けてくれば相手をしてやってもいいと思っていたが、そんな度胸のある奴は一人もいなかった。
 そうしてアタシはせっかく進んだ高校を辞めて、祖母の母校である今の私立女子高に転入した。転入試験は白紙答案だったのにすんなり入学できたのは、祖母がOG会の重鎮であることと無関係ではあるまい。
 父がしでかしたことはそこでも知らない者はいなかった。ただ、アタシは祖父の意向で父の籍から祖父の籍に移って佐伯姓から今の榊原姓に変わっていたし、聞かれて否定したことはないけど自分から言いふらすような真似はしなかったから、アタシがその暴力警官の娘だということを知らない同級生は結構いた。
 祖母がどうしてもというので転入はしたが、アタシは最初から学校に行くつもりはなかった。同じ目に――あるいは女子高だからもっと陰湿な目に――遭わされると分かっていて行くほどアタシは物好きではなかったからだ。
 代わりにアタシは夜になると天神や大名、あるいは中洲といった街を出歩くようになった。
 行く当てはまったくなかったし、誰か知り合いがいたわけでもない。そんなものを作ろうという気はさらさらなかった。
 アタシはただ、誰もアタシを知らない、誰もアタシに干渉することのないところにいたかっただけだ。どうにも抑えられないどす黒い衝動に駆られて売られた喧嘩を買い、あるいは喧嘩を吹っかけては警察のご厄介になるのを繰り返したりはしたが。
 
 アタシたちは親不孝通りを北に戻り、父が事件を起こした長浜公園前の舗道に立っていた。
 盛り場だった頃はこの公園も人で溢れていた。特に深夜になると周囲の店から吐き出されてきた若い連中がたむろしていて、父と母に挟まれたアタシはそれを恐がりながらも、そこに渦巻いているエネルギーに憧憬に似た想いを抱いたものだ。
 しかし、今は公園に人の姿はない。ここに人が集まるのは何かイベントがあるときか、公園の真ん前にあるライブハウスにちょっとした大物がやってくるときくらいだ。
 父の事件後、ここを訪れるのにはかなり時間がかかった。父が人を殺めたという事実に押し潰されるんじゃないかと怖くて仕方なかったのだ。
 けれど、実際に来てみればそうでもなかった。それはおそらく、アタシがどこまで行っても加害者側の人間だからだろう。あるいは、そこで父がしたことに実感を抱けなかったからだ。思い出すので好んで通ろうとは思わないが、避けずにいられないというほどのことはないのが現実だ。人は自分が蒙った痛みは忘れないが、自分が与えた痛みはすぐに忘れてしまう――去年の夏、ある事件で知り合った男が言っていた言葉だ。
「……お父さんはその後、どうなったんだい?」
 向坂が言った。押し付けがましい沈痛な声を聞かされるのかと思っていたら、相変わらずの淡々とした物言いだった。
「夏が終わった頃に懲役五年の実刑判決が出たよ。起訴事実を争ったりせんかったけん、結審するとが早かったとよね。今は北陸の刑務所に入っとる」
「お母さんは?」
「小学六年のときに病気で死んだよ。若かときの不摂生が祟ったわけやなかろうけど、心臓の病気を患うてね」
 母はアタシが小学生になってすぐに心臓の血管の狭窄で病院に担ぎ込まれた。それまで風邪くらいしか病気したことがない健康そのものの人だったので――これもアタシと同じだ――周囲は相当に慌てたらしい。
 母親の病気は手術が難しくて治療は内科的なものが主だった。そのため、母は頻繁に入退院を繰り返すようになり、アタシは必然的に家事に手を染めるようになった。家庭科で5以外とったことがないという家事万能の素地はその頃に作られたものだ。
 母は正月に一時帰宅しているときに発作を起こし、救急車で病院に搬送されたがそのまま息を引き取った。
「あのときさ、アタシ、何でか知らんけど人前じゃ泣かんかったとよね」
「お母さんが亡くなったとき?」
「そう。今でもよう分からんけど、ぜったいに泣いたらいかんって思って」
「へえ。でも、一人のときは泣いたんだろ?」
「そりゃそうよ。毎晩、枕のカバーがぐっしょり濡れるくらい。泣いて泣いて、泣き疲れてようやく眠りよった。でもさ――」
「でも?」
「人間ってさ、どんだけ悲しかことがあったってやっぱりお腹が空くとよね。葬式から一週間くらい経った頃かな。朝起きたらお腹がもの凄か音立ててさ」
 アタシは思い出し笑いを浮かべていた。
「悲しかやら情けなかやらで、もう、わんわん泣き出したとよ。そしたら、お祖母ちゃんがアタシをギュって抱きしめて「それでいいとよ」って言うてくれたとよね。「それは真奈が生きとる証拠やけん、何も悪かことなかと。それをお母さんが教えてくれようとよ」って。そしたらさ、不思議なことにそれまで張り詰めとったもんがなくなって。母さんが死んだことは確かに悲しかったけど、それを事実として受け入れられたとよね」
「そうか……」
 向坂はアタシの顔を不思議そうに覗き込んだ。
「なん?」
「いや、真奈ちゃんが亡くなったお母さんのことを昔話にするのは分かった。でも、お父さんは違うんじゃないか? 懲役五年ってことは、あと二年半すれば出てこられるじゃないか」
「そうやけどね……」
 同じことは何度か訊かれたことがある。一番身近なところでは由真からも。けれど、それについてちゃんとした答えを返したことはなかった。言っても理解してもらえるかどうか、あまり自信が持てないからだ。
 けれど、この男になら言ってもいいような気がした。
「こがん言うたらちょっと変なんやけど、アタシが父さんのことをおらん人みたいに言うとは、あの人がおらんでもアタシはちゃんと生きとるって言えんかったら、おちおち年頃の娘を残して刑務所とか入っとかれんやろうなーって思うけんなんよね」
 向坂は黙って肯いた。アタシは足元の小石を蹴っ飛ばした。
「あの人は残されるアタシのこととか考えんであがんことしたけど、今はやっぱり後悔しとうと思うとよね。それに、死なせた相手はロクでもない麻薬の密売人やったけど、それでも自分が冒した罪はちゃんと償おうとしよるとやろうけんさ。やけん、アタシがその足を引っ張ったらいかんと思うと」
「……強いんだな、真奈ちゃんは」
「アタシは強うなんかないよ」
 唐突にデジャヴのような感覚に襲われた。どこかで同じようなことを言われたか、あるいは言ったような気がする。あれは昨日の夜の居酒屋での会話じゃなかっただろうか。
 いや、違う。ついさっきの向坂の言葉だ。

 ――俺は優しくなんかない。

 ――アタシは強くなんかない。

 子供であれば与えられて当然の愛情を誰からも与えられなかったのに、どれだけ世の中を儚んで歪んでいてもおかしくなかったのに、目の前のこの男は親族に見放された大叔父に共感することができる。自分を疎ましがる祖母に歩み寄ろうとすることができる。自分のために変わってくれない身勝手な父母へ、恨みをぶつけずに心の中で処理してしまうことができる。それが優しさでなくて何なのだろう。
 一方、アタシはどうだ。もし、向坂が言うようにアタシに強さなんてものがあるとしたら、それは父や祖父母に心配をかけたくないから全てを過去に押し流したことや、元彼の夢と自分の寂しさを天秤にかけて別れを選んだ気持ちのことかもしれない。
 笑い出しそうになった。
 なんて似ているんだろう。二人とも自分の心を正面から受け入れることができないから、自分のことを否定してみせる。自分が弱いことを知っているから、辛いことに耐えるために自分の心を氷の塊に変えてしまうことができる。
 ようやく、向坂に感じたシンパシーの正体を理解することができた。彼はアタシの同類なのだ。  
 
 

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