「Change the world

第二十一章

  アタシたちは西中洲から国体道路に出て中洲方面に歩いていた。由真の中学のときの先輩が働いているガールズ・バーが中洲に支店を出して、そこでチーフを任されているというので顔を出してみることになったのだ。
「へえ、あれが屋台か」
 春吉橋に差し掛かったところで、向坂が道向かいを眺めて呟いた。
 国体道路から清流公園に折れる路地沿いには博多名物の屋台が多く集まっていて、煌々と照らされた那珂川沿いの遊歩道に十数軒が軒を連ねている。入りきらない客のために舗道の反対側や隣の屋台との間にテーブルを置いている店もある。
「この辺の屋台のお客さんの大半は観光客って話やけどね」
「地元の人は屋台には行かないの?」
「そういうわけやないけど、もうちょっと街中とか、職場のそばとかに行くらしかよ。やけん、この辺のは値段がぜんぜん違うとよね」
「へえ。――それにしても、すごいロケーションだな」
 向坂が苦笑いを浮かべたのは、舗道の先にキャナルシティがあるからではない。屋台の並びの背後に広がるのが有名な中洲の南新地――要するにソープランド街だからだ。
「そがんよねぇ。ここ、国体道路からキャナルに行くときの近道やけど、はっきり言うて気まずかもん。お店の人とかと目が合うたら特に」
「お互いにそうだろうね」
 一説によれば、キャナルシティが建物の中から周囲が見えない閉鎖的な構造なのは目の前に南新地があるからだと言う。
 由真の先輩の店は中洲四丁目の川沿いのビルという話だったので、春吉橋を渡ってすぐに南新地と反対側に折れて川沿いを歩いた。
 中洲を南北に貫く中洲大通りはともかく、それ以外の路地は歓楽街という割にはけばけばしくもなければ明るくもない。ネオンや看板の人工的な灯りが真っ暗な中に浮かんで見える風景は迷路を連想させるほどだ。中洲はその名の通り那珂川の中州なので大した広さではないが、細い路地が入り組んでいるので不案内な人間にとっては文字通りのラビリンスだろう。
「――あれっ!?」
 向坂が唐突に素っ頓狂な声をあげた。
「どがんかした?」
「後ろの連中、どこ行ったんだ?」
「へっ?」
 アタシも向坂につられて振り返った。そこにいるはずの女子四人と男子一人の姿がない。
「どこかではぐれたのかな?」
「……かもね」
 春吉橋を曲がってすぐのところに、川沿いの遊歩道と中洲の真ん中のほうへ入っていく路地の分かれ目がある。先に行くアタシと向坂に気づかれないように道を違えたとしたらそこだ。
 しかし、まあ、やってくれる。
 伊達に長い付き合いではないので、由真が何か企んでいることには料亭を出るときから感づいていた。ただ、まさか、ここまで早いタイミングで仕掛けてくるとは思っていなかった。しかも、こんな露骨な手で。
 念のために由真の携帯電話を鳴らしてみたが、予想した通りに<おかけになった電話は電波の届かないところにあるか――>というメッセージを聞かされただけだった。志村の携帯も同じ。すでに篭絡された後だった。
「でも、彼女たちもそのバーに来るんだろ?」
「たぶん、バーの存在そのものがデマ」
 即答したアタシに向坂が唖然とした顔を向ける。
「……一つ訊くんだけど、真奈ちゃんとあの子って友だちじゃないのかい?」
「ときどき、自信がなくなるとやけどね」
 ふと思いついて、ポシェットに手を突っ込んだ。
 このポシェットは、由真が「真奈は可愛いと持っとらんけん、これ貸してあげる」と言って差し出したものだ。つまり、何か仕掛けてあると考えたほうがいい。
 底敷の下からは案の定、ジッポを縦に二つ並べたくらいのプラスチック製のケースに短めのボールペンを括りつけたような器械が出てきた。怪訝そうな表情で向坂がアタシの手元を覗き込む。
「何だい、それ?」
「GPS発信器。PHSを改造して作ったもんなんやけど」
「何でそんなものを……」
 絶句する気持ちはとてもよく分かる。アタシもそうしたいからだ。
 アタシの手の中にあるこれは由真のお手製で、簡単に言えばGPS機能付きのPHSから通話機能を取り除いてアンテナを増設したものだ。一〇分程度に一度、位置情報をメールで由真が持ち歩いているノートパソコンに送信するようになっている。キャベツの千切りが短冊どころか乱切りになるほど不器用なくせに、あの悪魔はこういう工作だけは得意なのだ。
 さて、どうしたものか。
 持ち歩くのは論外だが、見た限りでは器械を壊さずに電池を抜くのは無理そうだった。見た目よりも高価なものなので捨てていくわけにもいかない。そうしても非難される謂れはないはずだけど、目論見が潰えてむくれる由真にそんな理屈が通じるわけがないからだ。埋め合わせをカラダで払わされてはたまらない。
 となれば、選択肢は一つしかなかった。
 来た道を戻って由真たちが折れたであろう路地のほうへ歩いた。彼女たちはおそらく中洲大通りに出たはずだけど、アタシたちはそのまま真っ直ぐ中洲を横断して上川端のアーケードに繋がる橋の袂に出た。そこからまた川沿いの道を進んだ。
「どこに行くんだ?」
「これを預けられるとこ。知り合いの店なんやけどね」
 那珂川は中洲によって一時的に二つに分かれるが、上川端商店街との間を流れる細いほうの一キロにも満たない部分にだけ博多川という名前がある。アタシはその川沿いに建つ雑居ビルの前で足を止めた。箱型の古びた看板に古くさい書体で<PIANISSIMO>の文字が踊っている。
「ここは?」
「言うたろ、知り合いの店に行くって。ちょっと寄ってこ」
 階段を降りて、地下のバーのドアを開けた。
「こんばんわぁ……」
 鈍いカウベルの音が狭い店内に響く。
 薄暗い店の奥にスツールが八脚ほどのバーカウンターがあって、天井から落ちるピンスポットの中で削りすぎた木彫りの人形を思わせる老齢のマスターが黙々とグラスを磨いていた。春先になろうとしているのに痩せた身体を包んでいるのは冬物のメスジャケットだ。まあ、この人は一年中こんな格好をしているが。
 まだ九時前で客の姿はなかった。口開けを待つように現れる常連が一人いるだけで、あとは深夜にならないとこの店は賑わない。
「おや、珍しかお客さんやね」
 マスターが言った。
「そがんことなかろ。一ヶ月前に来たとやけん」
「そうやったかな。このところ、物忘れが激しゅうていかんね」
「嘘ばっかり」
 アタシはこの人が物忘れをしたのを見たことがない。どんな昔のどんな些細なことでも一度話したことに触れるとすぐに返事が返ってくる。
 マスターがしらばっくれている理由にはすぐ思い至った。アタシが前の彼と別れたその夜、ここに来てジントニックを三、四杯ほどやっつけながら泣いたからだ。
「後ろの彼はお連れさん?」
 マスターはアタシの背後に目をやった。
「東京から来とる友だち。飲ませてもらってもよか?」
「構わんよ。入らんね」
「だってさ」
 向坂を店内に引き込んだ。無理やりスツールに腰掛けさせると、マスターが何にするかと訊いてきた。向坂の表情が露骨に曇った。
「俺、カクテルなんか知らないよ」
「別にカクテルやなくてもよかよ。好きなのにすれば。マスター、アタシはメーカーズ・マークの水割り」
「じゃあ、俺も同じものを」
 マスターが赤い封蝋の施されたボトルを手にした。マドラーが音もなく回り、やがて、淡い琥珀色の液体が入ったオールドファッションド・グラスがアタシと向坂の前に置かれた。
「乾杯」
「ああ、乾杯」
 グラスの縁を軽く触れ合う程度に合わせて、メーカーズ・マークを口に運んだ。れっきとしたバーボンなのにまったくバーボンらしくない華やかな味はアタシの最近のお気に入りだ。
「んー、美味しいっ!!」
「……ホント、好きなんだな」
 向坂は呆れ顔で言った。そう言う彼も苦もなくアルコールを身体に入れているが、どこか、不味い水道水を飲んでいるようなところもある。
「お酒、嫌いなん?」
「味がどうとかじゃないけどね。あんまりいい思い出がないんだ。――いや、悪い。こういう店でする話じゃないな」
「別によかよ。アタシとマスターしかおらんとやけん。ねえ?」
 マスターに同意を求めた。マスターは控えめな微笑を浮かべて恭しい会釈で答えた。
「ねえ、聞かせてよ。よかろ?」
「……真奈ちゃん、酔ってるだろ。さっきの店で飲みすぎたんじゃないのか?」
「ふん、誰のせいねって」
 向坂の澄ました顔を睨んだ。
「女の子に囲まれてデレデレして、アタシのこととか忘れとったろ?」
「誰もデレデレなんかしてないだろ」
「うっそ、しとった」
「してないよ」
「いーや、ぜったいしとった!!」
 しばらく向坂に絡んだ。我ながら酒癖だけは良いと思っていたし、今も頭の中のどこかで懸命にブレーキ・レバーを引っ張っていた。
 けれど、止めることはできなかった。
「俺は断じてデレデレなんかしてない」
「まー、しょうがなかね。そういうことにしとっちゃるよ」
「……そうしてもらえるとありがたいね」
 言い合いに疲れて皮肉っぽく口許を歪める向坂は、おかしな話だけど、これまで見た中で一番表情豊かな感じに見えた。
 

-Powered by HTML DWARF-