「Change the world」

第十四章

「うっわ、うめぇ!!」
 おそらくそういう反応だろうと思っていたけど、志村はお椀を抱え込むようにしてだご汁を口にかき込んでいた。
 上品とはお世辞にも言いがたい仕草なのは間違いないが、作った側としては微笑ましく見えるのも事実だ。先生はあっという間に空っぽになった器をニコニコしながら受け取ると、お椀の縁すれすれまでお替りをよそった。
 一方、それを横目に見ながら行儀よくサワラの味醂漬けを口に運ぶ向坂は、心ここに在らずといった表情だった。
「どがん? それ、アタシが焼いたっちゃけど?」
「……えっ? あ、ああ。美味しいよ。ちゃんと焼けてるし」
「そう、よかった」
「でも、これっておまえが味付けしたわけじゃねえんだろ。味付けした人の腕がいいんであって、おまえが喜ぶとこじゃねえんじゃねえか?」
「せっからしかねぇ、あんた。刺身こんにゃくにウスターソースかなんか、かけちゃろうか」
「よせ、せっかく美味いのに」
 志村は慌てて手で自分の前の器に壁を作った。誰もホントにやったりしないつーの。
 このアホウが騒がしいことを除けば食卓は和やかだった。
 向坂も出された料理は残さずに平らげたし、ちゃんとご馳走様も口にした。催促めいたことこそ言わなかったけど、おそらく、これでもう帰れると思っていたのだろう。
 だから、アタシが横河先生に向かって「郷土史家というのがどういうことをしてる人なのか興味があるので向坂の大叔父の仕事場を見せて欲しい」と頼んだときには、今度は遠慮のない鋭い目でアタシを睨んできた。
「真奈ちゃん、それじゃ帰りが遅くなるだろ?」
 声はそれまでよりも一段と低く、抑揚はほぼ消え去っていた。それはおそらく彼なりの最大の自己抑制だったに違いない。
「そうやけど、でも、そこ三〇分くらいの話やん。帰りの列車の時間とかあるわけやなかろ? ホテルに門限があるわけでもなかし」
「まあ、それはそうだけど――」
「やったらいいやん。アタシも初めて秋月に来たっちゃけん、少しくらい観光させてくれたってさ」
「いや、俺が言ってるのはそういうことじゃなくて」
「一緒に来るとが嫌やったら、アタシが書斎を見せてもらいよる間、志村と二人でZでその辺をドライブしてきてもよかよ」
「いや、そういうつもりじゃ……っていうか、無理だし」
 向坂は顔をしかめている。
 意地悪を言ってるのは分かっている。向坂は免許を持っていないし、免許取立ての志村ではハイパワーのフェアレディZは手に余る。同じ初心者マークでも高校二年のときから箱崎埠頭で四輪ドリフトの練習をしていたアタシは例外中の例外なのだ。
 それ以前に郷土史家の書斎はどう考えても観光目的の場所ではないのだけれど、それは誰にも突っ込まれなかった。
「じゃあ、よかね。けってーい」
 
 アタシたち三人は一度玄関に回って靴を履き、母屋と納屋の間を通る狭い道を歩いた。
 この通路は横河家の駐車場を兼ねているようで、先生のムーヴは通路の途中に停まっていた。言ってくれれば手前の庭で停めたのに、先生がお構いなしに入っていくのでアタシまでZをここに乗り入れている。
 その奥には小さな箱庭のような庭園があった。
 苔むした岩に囲まれた池の周りには実物大の鶴の彫像が飾られている。これは太宰府天満宮の心字池に飾ってあるものと同じなのだ、と先生はちょっと自慢げに言った。確かに太鼓橋の袂で同じものを見たような覚えがあった。
 大宰府天満宮には実はあまり良い思い出がない。
 と言うのも、心字池に架かる三連の太鼓橋には縁切り橋の言い伝えがあって、中学三年の初詣で亮太と一緒に渡ったら彼の転校で本当に別れることになってしまったからだ。迷信とかジンクスは信じてないアタシだけど、そういう理由でこの橋はぜったいに一人で渡ることにしている。由真とですら一緒には渡らないのだ。
 そんなことを思い出しながら庭について説明(と言うか、自慢)をする先生の話を聞いていた。向坂も相変わらずの仏頂面でそれに聞き入っている。志村だけは予想通りにまったく興味を示していないけど、先生が気づく気配がなかったので好きにさせておいた。
 一通りしゃべって満足すると、そろそろ学校に戻る時間ということで、アタシたちに離れの鍵を預けてムーヴは走り去った。無用心極まりないが田舎ではありがちなことではある。
 明らかに気乗りのしない顔で後ろを歩いてくる向坂を肩越しに確認してから、並んで歩いていた志村の袖を引っ張った。
「なんだよ?」
「頼みがあると。アタシが書斎の奥におる間、向坂くんを手前の部屋で足止めしとって。できたら外のほうがいいっちゃけど」
「……別に構わねえけど」
「でも、ある程度経ったら、向坂くんを中に連れてきて欲しかと」
 さすがに志村の顔が訝しそうに曇る。
「何のために?」
「ごめん、説明しよる暇ないとよ。よかね?」
「胸、揉ませてくれたら引き受ける」
 思わず志村の顔を見返した。
 恐くて近寄りがたいと思われている一方でアタシはこの手のセクハラを言いやすいらしく、バイト先でも道場でもしょっちゅう聞かされる。なので、いちいち腹を立てたりはしない。
 けれど、まさかこの男から聞かされるとは思わなかった。率直に言ってオンナ扱いされているとは思ってなかったのだ。
 何と言い返そうか迷っていると、志村が先にバツの悪そうな顔になった。
「冗談だよ。分かった、いつまでもってわけにはいかないだろうけどな」
「……お願い」
 何と言いようもないので、それだけ言って早足で離れに向かった。
 離れは昔ながらの日本家屋で、ひんやりした空気が漂う土間から一段上がると板張りの八畳間になっている。その左奥は同じくらいの和室だ。離れの半分は倉庫なのだそうで、人が住めるように作ってあるのはこの二部屋だけだ。
 書斎はいかにもそれといった趣きの部屋だった。
 壁一面を埋める作り付けの書棚の前に大きな書斎机が置いてあって、古びたアーム・ライトがついさっきまで使っていたかのように天板の上に張り出している。その周りには脇机やキャスターがついた台、背の低いサイドボードなどが整然と置かれている。書棚の反対側の壁際にも本棚が幾つか並んでいて、その奥には引き出し式のファイル・キャビネットが三段に積み重ねられている。窓際には今どきどこに行っても見ることはなさそうなラジエーター式のヒーターがある。
 書斎机のガラス敷きの天板には先生が話していた通り、数冊の作りかけのスクラップ・ブックが無造作に広げられていた。その脇に古くさいデザインの小さなラジオが置いてある。スイッチを入れてみるとチューニングはFM福岡に合わせてあった。
 誰もいなくなった今でも掃除はされていて、予想していたような埃っぽさや黴臭さはなかった。書棚に並ぶ本以外にはほとんど物は無くなっている。横河先生は遺品の片付けながら見つからない手紙を捜したのだろう。
 それでも、ちょっとだけ空気が澱んでいるような気がしたので書斎の窓と奥の和室の窓を開けた。対になった風の通り道が開くと部屋の中に新緑になる前のやわらかい匂いが流れ込んできた。
 書斎が主の在りし日の面影を残しているのに対して、和室はすっかり片付いてしまっていた。
 残されている家具と言えば小さな三段の小引き出しくらいのもので、あとは脚を折り畳んだ卓袱台が壁に立て掛けてあるだけだった。畳の陽焼け具合から向坂衛が部屋の模様替えというのをしない人間だったことが分かるけど、それだけのことだった。奥の襖を開けてみたけど押入れの中は空っぽだった。
 奥の和室からは入口とは別の土間に繋がっていた。
 薄暗い土間の隅には石造りの流し台と古臭いデザインのガスコンロがあった。昼食のときの雑談でこの離れには井戸から水が引いてあって、トイレと風呂以外はちゃんと生活に必要な施設が備わっていると横河先生が言っていたのを思い出した。
 一時期、母屋に赴くのを面倒くさがった向坂の大叔父はここで五右衛門風呂を沸かそうと考えたことがあったそうだが、火事の危険があるので思い止まったとのことだった。ちなみにトイレは外で済ますつもりだったらしいが、それはうら若き乙女であった先生の大反対で頓挫したらしい。まあ、万事に大らかなアタシでもそれは許さないだろう。
 そんなことはどうでもいい。足早に書斎に戻った。高い背当てのついた椅子に腰を下ろして、スクラップ・ブックを手に取る。
 息を呑みながらページをめくった。
 

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