「Change the world」
第八章
秋月中学校は秋月城址の敷地の一角にあった――というより、今は中学校の敷地の隣に城址があるといったほうがいいかもしれない。
杉の馬場通りという、いかにも城跡らしい趣きの堀と石積みに面した小道からZを乗り入れると二階建ての木造校舎が目に入ってくる。春先のやわらかい陽射しに照らされた校庭は広々としていて、裏山と呼ぶには小さな斜面は新緑になる前のやわらかな緑で覆われている。遠くには飯塚地方と秋月を含む筑後地方を隔てる山々がなだらかな稜線を描いているのも見える。
向坂の大伯父がお世話になっていたという女性がここで教師をしていて、お墓もその女性の自宅近くにあるらしい。わざわざ時間を取らせるのも悪いとのことで、向坂は場所だけ訊いてまっすぐ墓参りに行くつもりだったらしいが、女性はぜひ会って話がしたいから学校を訪ねてくるようにと言ったのだそうだ。
向坂が挨拶を済ませてくる間、アタシと志村は校庭に面した大きなクスノキの木陰で待つことになった。
「うっわー、今どき木造校舎とかあり得ねえ」
言葉とは裏腹に感嘆したような口調だった。
「田舎に行くとわりとあるっちゃけどね。でも、こういうのもよかて思わん?」
「思わねえよ」
ふん、ホントに風情ってものを理解しない男だ。
校庭では男女混合でソフトボールをやっていた。
クラスマッチの季節ではないはずだけどその割には真剣にやってるようで、審判は若い男性教師がちゃんとプロテクターを着けて務めている。ピッチャーをやっているショートカットの女の子は本格的なウィンドミルで投げていた。
スコアボードによれば七回の裏、ルールどおりならラスト・イニング。スコアは一回の表の一点だけ、いわゆるスミイチというやつだ。ノーアウトでランナーは一、三塁。一塁の女の子はあまりやる気があるように見えないので、フォアボールで出塁したのかもしれない。一方、三塁の男の子はいかにも野球少年という感じだった。これまで何とか凌いできたのが、最終回でついに捉まったというところか。
次のバッターはほっそりしていてパワーがあるようには見えないが、スイングは結構鋭い。見るからに小器用なタイプだ。バッテリーからしてみれば、この場面で迎えるには一番嫌なバッターだろう。セーフティ・バントはもちろん、内野安打でも三塁からホームに突入されかねない。
キャッチャーがタイムをとって、内野に前進守備の指示を出した。驚いたことにマスクを被っているのも女の子だった。男子を差し置いてバッテリーを組んでいるあたり、ひょっとしたら二人は本格的にソフトボールをやっているのかもしれない。
どちらを応援する謂れもないけど、心情的には同じ女子を応援したくなる。
「ねえ、バッター、どがんすると思う?」
志村はタバコの煙をぷかりと吐き出しながら「俺だったらスクイズに見せかけてバスター」と答えた。
まあ、間違いなくそうくるだろう。バッテリーがバントを嫌ってピッチドアウトを多用すれば、どうしてもカウントが悪くなっていく。フォアボールでも押し出しにはならないが、次のバッターと勝負できるのなら最初から満塁策を採る場面なので、それは選択肢に入っていないはずだ。
しかし、そうだとすれば、どこかでストライクを取るためにボールを”置き”にいかなくてはならなくなる。そこをバントの構えから一転、バスターで叩く。前のめりになっている内野守備陣の頭上を越えれば走者一掃のサヨナラタイムリーだ。一塁の女の子が全力疾走するとは思えないけど。
「うーん、どう考えたっちゃ、バッター有利やねぇ」
「だな。ところでおまえ、こういうの好きなの?」
「特別に野球とかソフトボールがってわけやないけどね。どっちかって言うと、女子が男子を倒すっていうシチュエーションが燃えるかな」
「へぇ……」
審判がプレイを宣告した。グラウンドに緊張感が走る。
一球目。力みがあったのか、ボールが大きく浮いて、キャッチャーの子が伸び上がるように手を伸ばして何とかワイルドピッチを逃れた。落ち着け、という身振りにピッチャーの子が小さく肯く。
二球目は落ち着いて内角低めへのストレート。バッターは一瞬、ヒッティングにいこうとしたが思い止まった。カウントはワン・エンド・ワン。
低めの球はバントがしにくいし、バスターだとゴロを打つ可能性が高い。選択としては正しい。ただし、ウィンドミルは低めのボールのコントロールが難しいので、下手をすればただカウントを悪くするだけの可能性がある。
三球目、外角の低いところへ。際どいコースだったがバッターはしっかり見送ってボール。
「あいつ、なかなかやるじゃん」
「そうやね」
四球目、五球目は再び低めの際どいコース。バッターはそれをことごとくカットする。ファウルでストライクカウントが進んでツー・エンド・ツー。
これまであまりサイン交換に時間をかけなかったバッテリーも、さすがに少し間を取って次の攻め手を打ち合わせる。ここからではどんなサインを出してるのかは分からないが、せわしなく手が動いているのは見てとれる。
ストライク先行の今、定石どおりならここはウェストを挟んでバッターを揺さぶる場面だ。キャッチャーは当然、その作戦を選択してミットをストライク・ゾーンから外す。
ところが、ピッチャーは首を横に振った。
「……何するとかな、ここで」
「さぁな」
目顔でのやり取りの後の六球目。
「うわぁ、度胸あるねぇ……」
ピッチャーの子の強心臓に度肝を抜かれた。彼女がこの場面で投げたのは、一歩間違えばデッドボールになりかねない内角高め――というよりバッターの胸元へのストレートだった。
バントができない球ではないがバスターのつもりで待っていては対応しにくいし、これまで何球もかけて低目を意識させてからなので、バッターは恐怖心からとっさに身体を引いてしまう。実際、バッターは後ろにひっくり返るように尻餅をついた。味方のベンチからは失笑、敵のベンチからは嘲笑が巻き起こる。
ピッチャーは投げ返されたボールをキャッチしながら、得意そうな笑みを浮かべて小さく舌先を覗かせた。
「――たぶん、次で決まるぞ」
「えっ?」
「いいから見てろ」
何を根拠にそう言ってるのか、アタシには分からなかった。志村はピッチャーではなくバッターボックスの男の子をジッと見ていた。
七球目。志村が言わんとしたことの意味が理解できた。
放たれたのは何とチェンジアップだった。それだけならバントの構えだったバッターにとっては打ち頃の緩い球が来たに過ぎない。しかし、バッターはバントでもヒッティングでもない中途半端な構えで居付いていた。
ピッチャーの狙いはこれだったのだ。低めのボールで意識を引っ張っておいて胸元へのブラッシング・ボール。構えを崩すという効果もあるだろうが、それよりも、これでバッターの意識が変わった。
――舐めた真似しやがって。
彼の中からバスター・エンドランで厭らしく攻めるという選択肢は消えて、完全にヒッティングモードになった。ところが、打ち気に逸ったところへ飛んできたのは速いストレートに慣れた目にはタイミングが取りづらいチェンジアップ。慌ててバットを振ったところでジャストミートはない。志村はそれをバッターの構えから見て取っていたのだ。
バッターはかろうじてバットをボールに当てることはできた。
「あーあ、終わった」
志村が言った。
その言葉のとおり、カコンという間の抜けた音と共に舞い上がったボールがピッチャーのグラブに収まってワンナウト、ホームへの返球で三塁ランナーがタッチされてツーアウト、ベンチの走れコールにしぶしぶスタートを切っていた女の子が一、二塁間で挟まれてスリーアウト。
終わってみれば、プロ野球でも滅多にお目にかかれない見事な三重殺だった。
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